Yasublog

本、土木・橋梁、野球、お笑い、などについて書いてます。

出会い橋なみだ橋

 家族を思う心が、橋をかけることもある。
 長崎市の中心部からうねうねと坂を上がり、港を見晴らす場所に、名のない橋がある。長さ9メートルのコンクリート橋は、できて5年と歴史も浅い。
 橋は、坂の町に生きた馬方、古賀朝男が、足を弱くした妻チエコ(82)に贈ったものだ。
 古賀は、親を早くに亡くし、10代半ばから馬車を使った運搬業を始めた。荷運びがトラックにとって代わられると、車の入れない坂や階段の先へ、馬の背に荷を負わせて運んだ。坂の町ならではのなりわいだ。
 高度成長のころ、町は山の上へ上へ広がり、馬方は繁盛した。家の建材を載せて馬を4頭連ね、手伝いの人が10人以上きたことがあったと、長男義己(56)は振り返る。後年は仕事は減ったが、農業のかたわら、墓石などを運んだ。
 羽振りの良かった若いころの古賀は飲む、打つ、買うの道楽もの。義己ら子ども3人を抱えたチエコに、苦労のかけっぱなしだった。

 2002年ごろ、そのチエコが足を悪くして高齢者施設に通うようになった。車のつけられるところまで、家から200メートルを歩かなければならなかった。古賀は、妻の手をとり、付き添って歩いた。
 親類がもつ私道の先に川があった。そこに橋をかけると、車は家から40メートルのところまで入れる。橋をかける、と古賀は決意し、市役所の許可をとった。
 橋の周囲も整備すると1000万円かかる。設計会社に「本当に個人でかけるんですか」と何度も念を押された。蓄えを取り崩すのに迷いはなかった。「かけるちゅったら、かけるんじゃ」
 橋が完成し、チエコは「ありがたいことです」と控えめに語った。施設の車を待って、夫婦で橋のたもとに立つ姿を、義己は何度か見た。だが、完成から2ヶ月、古賀は脳梗塞で倒れ、翌年、79歳で帰らぬ人に。チエコも高齢者施設に入所、いまは橋を渡ることはない。
 夫が妻のためにかけた橋は、周辺のお年寄りの送り迎えなどにも使われる。馬方の仕事を細々と続ける義己は、そのことを誇らしく思う。

朝日新聞の夕刊、「ニッポン 人・脈・記」に載った記事です。

橋に関わる仕事をしていると、ついその“大きさ”や誰もが知っている“ランドマーク的プロジェクト”に技術者のロマンや誇りを求めがちですが、この話のように、10メートルにも満たない小さな橋に、人生の終盤の大きな想いを乗せて渡った人生があったりするんですね。ちょっと感動しました。

仕事に大きい小さいはないと言いますが、自戒も込めてメモしておきます。