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[清原和博] 男道


男道

男道

ドラフト当日に起きた信じられない出来事。盟友・桑田真澄への揺れる想い。野茂、伊良部らとの特別な戦い。巨人への愛憎と、仰木監督が用意した知られざる花道。少年時代から憧れていた王監督への失望と劇的な和解。大リーガーなみのホームランを打つために用意した前例のない左膝の大手術と地獄のリハビリ。だから、最後に特大のホームランを一本打って終わりたかった――。 「ただ、真っ直ぐに歩きたかった」清原和博が初めて明かす、誰も知らない本当の素顔。


清原和博の半生記。生まれ故郷の「岸和田」。PL学園時代の「富田林」。西武ライオンズの本拠地、「所沢」。讀賣ジャイアンツの「東京」。オリックスバファローズの「大阪」。地名を章タイトルにしている。病魔に襲われながら采配を揮っていた仰木監督が、「代打、清原」と言ってしまった話にはウルっときた。ずーっと清原の最後を心配していた仰木さんは朦朧とした意識のなかで思わずつぶやいたのかも知れない。

正月のTV番組で語っていた内容も載っていたが、野球に出会い、野球で喜び、野球で裏切られ、野球が縁で出合った人に愛され、引退していった一人の男のドキュメンタリー小説、読み応えがあった。

栄川さんと及川さんに教わった野球人生においていちばん大切なことは、練習の価値を知ったことだと書いたけれど、いちばん大切なことがもうひとつあった。それはチームプレイの喜びだ。チームの全員が心をひとつにして敵のチームと戦っているときの、あの頭の中が真っ白になるような純粋な喜びを知らなければ、僕はこんなに長いこと野球を続けられなかった。

それでも両親は、僕と一緒にあのグランドでボールを追いかけていたのだと思う。夕ご飯を食べる息子の表情を見るだけで、両親には充分過ぎるほどなのだ。膝小僧の傷一つ、こぼした涙の一滴で、その日に何があったのかを知る。そして僕の喜びを、僕の辛さや悔しさを、一緒になって経験していたのだ。僕が打てなくて苦しんでいれば、両親も同じように苦しんでいた。

「人生行って来い」というけれど、僕の人生はその見本のようなものだった。禍福はあざなえる縄のごとし、幸福があれば不幸がある。山を登ったら、降りなきゃいけない。西武時代の11年の黄金期の次に用意されていたのは、イバラの道の12年間だった。光にあふれた栄光の道も、真っ暗闇の道も、僕の歩まなければならない道だった。

長嶋監督という人は、おそらくそのことを球界でいちばんよく知っている人だった。ファンと野球選手の関係、もっと言えば僕たち選手が最終的には何のために戦うのかということ、つまりプロ野球の根本を知り抜いていた。(中略)人生は子供の頃に思い描いていたほどバラ色でも、夢にあふれているわけでもない。人はみんな平凡で退屈な日常を地道に生きている。人が野球に魅了されるのは、グランドにはその夢があるからだ。一本の大きなホームラン、絶対絶命のピンチを切り抜ける渾身の投球・・・。球場の“奇跡”に人は感動し、時には涙すら流す。

野球選手の夢の戦場だと思っていた場所は、裏から見れば大人の論理と冷酷な計算が支配する寒々しい場所だった。僕は血の通った同じ人間ではなく、単なる使い捨ての商品のように扱われた。

「生まれ変わったら、必ず同じチームでホームラン競争をしような」王さんは高校時代の僕の気持ちを知っていたのだ。王監督もこの23年間、僕と一緒に同じ十字架を背負ってくれていたのだと思った。


このブログで「清原」について検索してみると以外にも多かったな。