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[伊坂幸太郎] 重力ピエロ


重力ピエロ (新潮文庫)

重力ピエロ (新潮文庫)

兄は泉水、二つ下の弟は春、優しい父、美しい母。家族には、過去に辛い出来事があった。その記憶を抱えて兄弟が大人になった頃、事件は始まる。連続放火と、火事を予見するような謎のグラフィティアートの出現。そしてそのグラフィティアートと遺伝子のルールの奇妙なリンク。謎解きに乗り出した兄が遂に直面する圧倒的な真実とは―。溢れくる未知の感動、小説の奇跡が今ここに。


兄弟愛の物語で復讐の物語でもある。生むと即断した父親はその瞬間に抱えたであろう宿命を墓場まで。世の中は矛盾だらけと言ったりするが、愛する存在、しかし、存在たらしめた相手が憎むべき者だとしたら。春は自分の出生の秘密を知ったあと、家族のために、自分自身のために、ケリをつけるために行動したのだ。兄弟、親子の会話が前向きで詩的で心地よいので、家族が負った傷・悲劇を物語として和らげている。余韻がじわじわと迫ってくる名作だと思う。

映画も公開中。映画『重力ピエロ』オフィシャルサイト

春が二階から落ちてきた。

「夏子さん」と、私と父はその子のことを呼んだ。「春」を追いかけまわすのは、「夏」に決まっているからだ。

「春は俺の子だよ。俺の次男で、おまえの弟だ。俺たちは最強の家族だ」そこには、我こそが悲劇の主人公である、と自らを哀れむ様子もなければ、自分自身を鼓舞するような響きもなかった。

私は反射的に、子供の頃に聞いた話を思い出していた。日本神話に出てくる、コノハナノサクヤビメのことだ。

「目に見えるものが一番大事だと思っているやつに、こういうのは作れない」父の言わんとすることは、薄らとではあったが、分かった。この「軽快さ」は、外見や形式とは異なるところから発せられているのだろう。しかも、わざと無作法に振舞うようなみっともなさとも異なり、奇を衒ってもいない。言い訳や講釈、理屈や批評からもっとも遠いものに感じられた。「小賢しさの欠片もない」私は呟く。「この演奏者はきっと、心底ジャズが好きなんだ。音楽が」父がうなずく。「本当に深刻なことは陽気に伝えるべきなんだよ」春は、誰に言うわけでもなさそうで、噛み締めるように言った。「重いものを背負いながら、タップを踏むように」それでは詩のようにも聞こえ、「ピエロが空中ブランコから飛ぶとき、みんな重力のことを忘れているんだ」と続ける彼の言葉はさらに、印象的だった。

「兄貴も気をつけたほうがいい。まっすぐに行こうと思えば思うほど、道を逸れるものだからね。生きていくのと一緒だよ。まっすぐに生きていこうと思えば、どこかで折れてしまう。かと言って、曲がれ曲がれ、と思っていると本当に曲がる」

最終的な拠りどころは、「性善説」ではないだろうか。社員の机の前に、各自の母親の写真と自分の赤ん坊だった時の写真を貼るように義務づけるのが、一番の不正防止策としか私には思えない。おまえの胸に聞いてみろ、というやり方だ。

「ヤエヤマサナエって知ってます?」唐突な質問に私は耳を疑う。「人の名前?」「トンボの種類ですよ。ほら」(略)「お兄さんが聞いたことがなくても、存在しているものってきっと多いですよ」

人の一生は自転車レースと同じだと言い切る上司もいれば、人生をレストランでの食事に喩える同僚もいた。つまり、人生は必死にペダルを漕いで走る競争で、勝者と敗者が存在するのだという考え方と、フルコースの料理のように楽しむもので、隣のテーブルの客と競う必要はなにもないという構え方だ。私は、どちらが正しいのかは分からなかったが、その時は現実に自転車を漕いでいた。駅へ向かっていた。

「重大に扱うのは莫迦々々(ばかばか)しい。重大に扱わなければ危険である。人の生き死には、まさにそれだよ」と彼は高校生のくせに、知った口を利いた。

「それは巨大な船の上で逆方向に歩くのと一緒だ」と憎々しいくらいの余裕を見せた。「甲板上で乗客の一人が逆方向に歩いたところで、影響はないだろうが。そんな一人の行動とは無関係に、船は進む。沈む時は沈む。遺伝子の大きな力の前では、個人の反抗なんて何の影響もない。しょせんは船の上だ」

未来は神様のレシピで決まるんですよ」(略)「未来は神様の匙加減で決まるもので、いや、すでに決まっていて、僕たちがばたばたしたところで変わらない」

無邪気に「さようなら」と言っている子供たちは可愛らしかった。気軽に、「さようなら」が言えるのは、別れのつらさを知らない者の特権だ、と私は思った。

「目には目を、という言葉があるじゃないか」春は言う。「何とか法典だっけ」「誰もがあれを、『やられたら、やり返す』と誤って解釈しているけど、あれは、『目を潰されたら相手の目を潰すだけにしなさい』『歯を折られたら歯を折るだけにしなさい』っていう過剰報復の禁止を述べているんだ」

「本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ」まさに今がそうだ。ピエロは、重力を忘れさせるために、メイクをし、玉に乗り、空中ブランコで優雅に空を飛び、時には不恰好に転ぶ。何かを忘れさせるために、だ。私が常識や法律を持ち出すまでもなく、重力は放っておいても働いてくる。それならな、唯一の兄弟である私は、その重力に逆らってみせるべきではないか。

「たぶん、おまえ以上に、このことを真剣に考えた奴なんて、世の中にいないんだ」