Yasublog

本、土木・橋梁、野球、お笑い、などについて書いてます。

“夏”という名の宝物


今年も開幕しましたね。
第91回全国高校野球選手権大会。今大会のキャッチフレーズは「“夏”という名の宝物」。球児にとっては一生の宝物を手にする夏ですね。


先週金曜日、東京行きの新幹線でNumberを読みました。松坂大輔桑田真澄大越基のインタビューや中田翔斎藤祐樹の対決、池田高校やまびこ打線の真実など興味深く面白い記事が多かったです。

中でも1992.8.16星陵vs明徳義塾の試合で松井秀喜5打席連続敬遠の記事は特によかったです。感動しました。


記事はこう始まる。

その時、罵声と興奮は頂点に達した。「帰れ!」「この野郎」「勝負せんかあ!」9回表2死三塁、2対3と1点を追った星陵の4番松井秀喜に“最後の打席”がまわってきたとき、こでまで繰り返されたのと同様、明徳義塾の河野和洋投手は、観客の怒声など耳が入らないかのように、バットが遠く届かない外に向かって、平然とボールを投げた。

その時はメガホンがグランドに次々に投げ込まれ、試合が中断した。再開後、星陵5番打者の月岩信成はサードゴロに倒れゲームセット。明徳義塾の校歌は「帰れコール」でかき消された。高野連と朝日新聞は「勝負にこだわりすぎだ」「高校生らしくない」と批判し、明徳義塾は日本中の憎悪の対象にされた。一方の松井は全打席敬遠された強打者として悲劇のヒーローとなった。

明徳の馬渕監督は試合前にシミュレーションした。河野投手が松井秀喜を抑えることができるか?出た答えは「どのコースに投げても抑えることは無理」との結論であった。では必ず次に対戦する5番打者月岩選手はどうか。次打者を打ち取る算段がないと歩かせる意味がなくなってくる。あらゆる分析を行った結果「月岩は打ち取れる」という結論になった。馬渕は初めて「松井全打席敬遠」という作戦を立てた。そしてその試合で遂行され勝利を得た。

その17年前の経緯を聞いた月岩さんは、おどろいた。「そこまで分析されていたんですか」と。苦手なコースを完全に見抜かれていたのだった。「あの当時は打てなかった自分が情けなくて仕方ありませんでした」
将来、高校の先生を夢見ていた月岩さんは大阪経済大学に進んで野球部に入るが、対明徳戦のことで先輩と諍いになり結局辞めてしまう。あの試合がその後の人生に微妙に影響したのは確かだろう。だが、現在地元で居酒屋「つきのや」を営む月岩さんは、語る。

「あれは自分しか味わえない経験だったと思います。明徳の作戦は当然でしょう。ルールに則ったことですから。これは、僕が“打てなかった”ということだけですよ。僕が打てば大量点でこっちが勝っていたわけですからね。実際、僕は神宮大会でも、台湾遠征でも、国体でも結構打ってます。でも山下監督は僕を買ってくれて、明徳戦で最後まで僕を変えなかった。それを考えると僕は幸せだなあと思います。馬渕監督がそこまで僕のことを研究してくれたことも嬉しいですよ。あの試合は僕の“人生の宝”です」


国民的人気スポーツの高校野球はその人気ゆえ時に当事者の手を離れて喧騒を起こしてしまう。勝負事は当事者同士のもの。観客やマスコミは第三者でしかないのです。当人がこれだけ納得しているのだから周りの人がどうこう言えたものではない。この記事を読んで思った。次のシーンを読んでそう強く思った。

馬渕監督は月岩さんへの取材の前に、こう私に語っていた。「野球から身を引いたら、女房と一緒に自動車で能登に行きたいんですよ。そして、月岩君に会いたいんですよ。あの試合では、月岩君にしんどい思いをさせてしまった。と思とるんですよ。もし月岩君に会ったら、その時は、ふらりと店に寄らせてもらっていいですか、と聞いといてくださいよ」 そのことを伝えると、月岩さんは、「いつでもお待ちしています、とお伝えください」と最高の笑顔を見せた。
高校野球とは何か。
1992年8月16日に行われた星陵対明徳義塾の試合は、そのことに対して究極の答えを迫った戦いでもある。高野連やマスコミが作り上げた“高校生らしさ”“爽やかさ”“清々しさ”・・・という極めて主観的で幻想的ともいえる概念に対して、真っ向から挑戦した野球。賛否両論を巻き起こし、社会現象にまで発展したこの試合は、高校野球が「勝負」に賭けた男達の“真剣勝負の世界”にあることを今も私たちに語りかけている。

ちなみにこの記事を書いたのは「甲子園への遺言」の著者、門田隆将氏です。
この夏もたくさんの球児が“人生の宝”を手にして帰っていって欲いな。