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[夏川草介] 神様のカルテ


神様のカルテ

神様のカルテ

神の手を持つ医者はいなくても、この病院では奇蹟が起きる。夏目漱石を敬愛し、ハルさんを愛する青年は、信州にある「24時間、365日対応」の病院で、今日も勤務中。読んだ人すべての心を温かくする、新たなベストセラー。第十回小学館文庫小説賞受賞。


信州の病院で奮闘す主人公の医者・栗原一止と写真家で世界を飛び回る嫁のハル。また病院の仲間や上司、看護師、患者との日常の中で成長する物語。地域医療と高度医療の狭間や終末期医療についても考えさせられる。現役医師の著者ならではの視線がよい。読了後はやさしさにつつまれること間違いなし。現役医師の作家といえば「チーム・バチスタの栄光海堂尊氏が思い浮かぶが氏も現代医療が抱える問題をエンタメにして世に問うている。人の死に最前線で向き合っている医師のようにその道のプロにしか書けない本がある。本書の夏川草介氏も続編を期待したい。2010年本屋大賞2位。

もちろん名札がどんなに見事に変わっても、つけている人間は日中と同じ内科医である。慢性的医者不足のこの町では、外科でも内科でも耳鼻科でも皮膚科でも、ひとりの「救急医」が診療を行う。それで良いのかと問う声もあるだろう。むろん良いわけがない。しかし、これもまた地方病院の現状なのである。

自分の専門は消化器だとか循環器だとか大声で吹聴できるのは、地方では大学病院くらいである。現場にとって重要なのは、医者か医者でないか、ということくらいであろう。

だいたい学問をするのに必要なのは、気概であって学歴ではない。こういう当たり前のことが忘れられて久しい世の中である。

「わからん。医者の中にも、より高度な医療を目指すものと野に下るものがいる。私は後者だ。今のような多忙な病院で多くの患者を診ていくことが医者の本分と思っている。そういう人間に高度医療とかやらがどこまで必要なのか、私の中で結論が出ておらん」

「死にかけてる人間をなんとかして助けるってことだ。グリーン脇のバンカーから直接ホールインを狙う時よりどきどきする。一番楽しい時だろ?」「不敵」と「不敬」がきわどいバランスでブレンドされた凄みのある笑みだ。こういう笑いはよほどの修羅場をみてきた医者でなければ格好がつかない。この人は、患者を助けられることが、どうしようもなく楽しいのだ。根っからの医者というのはこういう人をさすのだろう。

「だがそれだけじゃだめだ。大学でしか学べない高度医療ってのがある。お前ならそれも学んでさらに高みを目指せるんだ。多くの医者に会い、技を磨き、知識を深めるんだ。お前ならできる」

無為、無策、無能、無力、無駄、無用・・・。私の頭の中を形にならないもやもやした思いが音をたてて渦巻いている。渦の中心には「無」という文字がこれ見よがしに大きく強調されてぐるぐる回っている。

「治療法を考えるのではない」私は写真の癌巣を睨みつけたまま語を継いだ。「本人にどう話すかを考えるんだ」私は医者である。治療だけが医者の仕事ではない。

だから老人の言葉は正しい。家族ではないなら勝手に話すわけにはいかない。だが法は患者を守るための道具であって、法を守って患者を孤立させては意味がない。

点滴やら抗生剤やらを用いて、絶える命を引き延ばしているなどと考えては傲慢だ。もとより寿命なるものは人知の及ぶところではない。最初から定めが決まっている。土に埋もれた定められた命を、掘り起こし光を当て、よりよい最期の時を作り出していく。医師とはそういう存在ではないか。

「ただでさえ医者が足りねえご時世だ。それがこぞって最先端医療に打ち込んだら、誰が下町の年寄りたちを看取るんだ?俺たちはそれをやっている。残念ながらひたすら死に行く年寄りたちを看取る仕事が好きなやつは少ないから、こういう病院は慢性的医者不足で、見てのとおり多忙を極める」

思えば人生なるものは、特別な技術やら才能やらをもって魔法のように作り出すものではない。人が生まれおちたその足下の土くれの下に、最初から埋もれているものではなかろうか。