Yasublog

本、土木・橋梁、野球、お笑い、などについて書いてます。

[冲方丁] 天地明察


天地明察

天地明察

江戸時代、前代未聞のベンチャー事業に生涯を賭けた男がいた。ミッションは「日本独自の暦」を作ること―。碁打ちにして数学者・渋川春海の二十年にわたる奮闘・挫折・喜び、そして恋!早くも読書界沸騰!俊英にして鬼才がおくる新潮流歴史ロマン。


評判通りの面白さ。江戸時代(前期)に生きた天文暦学者、渋川春海の生涯をつづった物語。春海は天才でありがながらその才能をひけらかさない立ち居振る舞いの良さが周りの人を惹きつける。まさに「実るほど頭を垂れる稲穂かな」を彷彿させる。困難に直面してもその度にかすかな光が差し込み手をさしのべる仲間がいるのも春海の人徳にある。もともと春海は囲碁と算術が得意で研究心・探求心も持ったひとりの若者であった。その才能に目をつけたお殿様が当時必要に迫られていた改暦という一大事業を任せた。春海の人生はそこから一気に動き出す。自動車メーカーの社長がガソリン車が当たり前の時代に電気自動車の開発を一社員に密かに託すようなものかな。正しいことを証明するだけでは改暦は達成されずそこには既存の暦を信奉する者や朝廷内の権力闘争などが加わり、現代の企業社会にも置き換えることが出来るような人間ドラマがあるのだ。天文というテーマからは最近7年振りに地球に帰還したはやぶさの運用チームを思い出す。ある時代に等身大のひとりの男がどう生きどう成長していったかを視点に、改暦や歴史に詳しくない人でも楽しめると思う。第7回本屋大賞受賞。作者は冲方丁(=うぶかたとう)と読む。

この瞬間に味わった途方もない驚異こそ、のちの春海の人生において、何よりも克明に記憶されることになるものだった。もし、人生の原動力といったものが、その人の中で生じる瞬間があるとすれば、春海にとって、まさに今ことのきこそ、それであった。「一瞥即解――」

いったん作られた決まり事が、無数の小さな決まり事を生み出してゆく。さらにそれらが、互いに矛盾する決まり事を生み、その矛盾を解消するために、また新たな決まり事が生まれる。中には咄嗟に意味が分からず、馬鹿馬鹿しいとしか思えぬものもあったが、細部にわたって守らねば城内にいる資格を失う。身分が高い者も低いものも必死である。

疲れ知らずというより最初から疲れることをしていない。記憶力が本当に優れている者は、忘れる能力にも長けている。今日打った手のことなど晩に忘れ、翌朝に昨日の棋譜を眺めて新たに続きを考える。

「関さん、笑っていました。あなたのこの設題を見て、嬉しそうでした」(中略)「そうしたら関さん、今まで見た問題の中で、一番、好きだな、とおっしゃいました」

さらにそれは教養でもあった。信仰の結晶でもあった。吉凶の列挙であり、様々な日取りの選択基準だった。それは万人の生活を映す鏡であり、尺度であり、天体の運行という巨大な事象がもたらしてくれる、“昨日が今日へ、今日が明日へ、ずっと続いてゆく”という、人間にとってなくてはならない確信の賜物だった。そしてそれゆえに、領歴は発行する者にとっての権威だった。

天地明察ですか」春海は思わずそう繰り返した。北極星によって緯度を測るこの事業にふさわしい言葉だった。いや、地にあって日月星を見上げるしかない人間にとっては、天体観測と地理測量こそが、天と地を結ぶ目に見えぬ道であり、人間が天に触れ得る唯一のすべであるのだ。そう高らかに告げているように聞こえた。

「なら、ねえ・・・若い人に、考えだけでも、伝えておきたいと思いましてねえ・・・」伊藤はそう言ったが、春海がそのとき深く感銘を受けたのはまったく逆のことだった。人には持って生まれた寿命がある。だが、だからといって何かを始めるのに遅いということはない。その証拠が、建部であり伊藤だった。体力的にも精神的にも衰えてくる年齢にあって、少年のような好奇心を抱き続け、臨む姿勢を棄てない。伊藤が天測の術理を修得したのは四十を過ぎてからだという。自分はまだ二十三ではないか。

正之はまず、将軍とは、武家とは、武士とは何であるか、という問いに、“民の生活の安定確保をはかる存在”と答えを定めている。戦国の世においては、侵略阻止、領土拡大、領内治安こそ、何よりの安定確保であろう。では、泰平の世におけるそれは如何に、という問いに、“民の生活向上”と大目標を定めたのである。

そして、春海にとって生涯忘れられぬ言葉を、酒井が放った。「算哲の言、また合うもあり、合わざるもあり」この一瞬で、改暦の気運は消滅した。

闇の中で春海は呟いた。建部と伊藤に誉めて欲しかった。酒井に天に触れたと告げたかった。死と争いの戦国を廃し、武家の手で文化を作りたかったと願った保科正之の期待に応えたかった。闇斎の、島田の、安藤の、改暦事業を立ち上げた仲間たちの悲願を叶えたかったし、亡き妻に胸を張って報告したかった。村瀬に喜んで欲しかったし、えんと我が子に、自分の存在を誇ってもらいたかった。関孝和という男が託してくれたものを何としても成就させたかった。己だけの春の海辺に立ちたかった。