Yasublog

本、土木・橋梁、野球、お笑い、などについて書いてます。

[中村計] 甲子園が割れた日―松井秀喜5連続敬遠の真実


甲子園が割れた日―松井秀喜5連続敬遠の真実 (新潮文庫)

甲子園が割れた日―松井秀喜5連続敬遠の真実 (新潮文庫)

「甲子園なんてこなければよかった」―。球史に刻まれた一戦、1992年夏、星稜vs明徳義塾。松井との勝負を避けた明徳は非難を受け、試合をきっかけに両校ナインには大きな葛藤が生まれた。あれから15年、自らの人生を歩みだした監督・元球児たちが語る、封印された記憶。高校野球の聖地で、彼らは何を思い、何が行われたのか。球児たちの軌跡を丹念に追ったノンフィクション。


いつの間にか現役の高校球児はこの“事件”を直接知らない世代になっている。もう18年も前に起こった出来事だ。今はサラリーマン、銀行員、野球監督、大リーガーなどいろんなフィールドを生きる当時の関係者に丁寧に取材をし、なぜあの時、あのような社会をも巻き込む騒動が起こったのかを刻々と描いている。『野球観』と『高校野球観』。勝利至上の私学と雪国のおっとり気質。球場が山奥にあり1年中閉ざされた環境で監督を含め寝食をともにするある意味カルト的私学と北陸の野球風土。両監督の生い立ち、野球観の違い。いろいろな視点での相克が描かれている。読んでいて気付いたが、星稜山下監督は選手のことを「子供たち」と話す。池田高校の蔦監督も「子供たち」と言ってたような。(馬淵監督はどうかわからないが。)もしかしてその呼び方に野球観が表れているのかも知れない。この事件を大きくした要因に「明徳の投手は松井と勝負したかったのでは?」という憶測である。監督という大人のエゴに選手である子供が犠牲になったのでは?という推論である。これに対する答えは本書を読めば書いているので割愛する。果たして5敬遠はありかなしか?どちらが正しいか。当事者でさえ「答えは一生でない」と語るこういった問題は社会に出てもつきまとう。美徳をよしとするか、名を捨てて実を取るか。今の自分はこのような大小いろいろな決断の結果で存在する。こういう内容の濃いノンフィクションをワンコインで読めるすばらしい本、野球に詳しくない人にもオススメできる。第18回ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞作。

この試合の話は去年、ナンバーを読んだときの記事もあるので。こちら→ “夏”という名の宝物 - Yasublog

「やらないかんと思い始めたんよ。最初は技術論ばかり言ってた。でも高校野球は精神的なものが占める割合が大きいんだなと。高校生は駒のように考えても駒にならない。ワンポイントのつもりでリリーフに出しても、あっさり打たれちゃったり。ノンプロだったら、だいたい計算できる。緊張して我を失っちゃうなんてことはないですからね。高校生に精神的なものを伝えるためにはどうすればいいか。それには、やっぱりナンセンスと言われるようなこともあえてやっていこうと思ってね。あの頃は、しょっちゅう夜中まで練習したりしとったもんなあ」

「卒業して思うんですけど、やっぱり勝つことを教えるのが教育だと思いますよ。正々堂々やって、潔くやって、負けてもいいよという教育なんて社会に出たら通用しないでしょう。銀行だってひとつならいいですけど、いくつもあるわけですよ。その中で相手の方が上だと思っても、なんとかしないといけないわけですからね」

≪あの当時の松井は秀喜は5回敬遠する価値のあるバッターではなかったと思っているんですよ。勝負しててもね、打ったか、打たないか、わからないですからね。松井秀喜は5回敬遠されたことで伝説のバッターになってしまったんです。甲子園ではね≫

松井に、もし明徳の選手に会う機会があったとしたら何か聞きたいことはあるかと聞くと、ずいぶんと長い時間考えたあとこう答えた。「・・・高校時代、楽しかったのかどうか聞いてみたいですね。どういう3年間を送ってたのか。僕ら、すごい楽しかったもん、高校3年間。彼らには喜びはあったのかな」

松井は「高校生らしさ」ということについてこんな風に語っていた。「強い者がいたら逃げればなんとかなるんだというのは、あんまり勧められることではないと思いますね。それよりも、それをどうやって抑えればいいのかと。われわれは終わってからの人生に役立つように野球をやっているわけだから」

≪やっぱり星稜らしく、散ってしまったな。本当にいいチームやった。長い間、ありがとう。なんでも逃げないでな。今日みたいにな。明徳みたいに、逃げるんじゃなくて、堂々と立ち向かって。人生っていうのは卒業してからが勝負やぞ。これからも、この体験を生かして、人生の勝利者になってほしいと思う。≫

「でも僕も君になりたい、って言いたいですよ。月岩って名前も覚えてもらって。応援団やってた僕の名前なんて誰も知らないでしょう。胸張って、あそこに立てただけで幸せだって、言って欲しいですよね。未だに引きずっているなんていうのは、メンバー外の子への侮辱ですよ。松井もそう。松井も確かに敬遠に耐えた。でも松井が耐えたことがないことを耐えた人もいる。松井はそれ、わかっているんじゃないですか。だから辛かったとかはあんまり言わないんじゃないですか。月岩が悩むことじゃないと思いますよ。そんなことで負けたなんて思ってるやつ、一人もいないでしょう。自分のせいで負けたなんてのは思い上がりですよ」

「あんまり僕は敬遠はしません。子供たちが力を試す場だから。打たれたらそれで勉強すればいい」

「(山下)監督の場合、野球観というよりは、高校野球観なんでしょうね。高校生を教えてるってことをものすごく意識している。育ち盛りの選手は失敗して覚えていくんだって。でも逆に言えば、そのあたりに、勝敗どうのこうのじゃなくて、金沢気質っていうのかな、よくおっとりしているって言われるんですけど、そういう部分が出ちゃってるのかなという感じはしますね」

5敬遠に関して福島は「俺でもやってた」と断言する。「僕や馬淵君のように社会人野球を経験していると、勝ってなんぼなんや。負けてもいいってことはないもん。それが習性として身につくんよ。半分、仕事休んでやってるんやから。会社の士気を上げるためにもね。それと明徳の校長も言っとったけど、明徳はスポーツによって知名度を上げていかないといけない学校なんですよ。勝利にこだわらないわけにはいかない。でもそれも立派な信念ちゃう?あの試合、球場の八割、九割は星稜の味方になっとったけど、甲子園はやっぱり戦いの場やで。俺も5打席のうち3回か、4回は敬遠してたと思う」

松岡が心の時計の針を十数年前に戻す。「心の中で叫んでいましたよ。雪国になんで逃げないといかんねん!どつきにいったんやから、どついてこいや!って。こっちは一年中、野球やっている。向こうは7ヶ月しかやってない。3年生は、750日間、相手と戦うために練習してきたわけだろうと。ケンカになったら、逃げたらいかんよ。僕はよっぽどのことがないかぎり、敬遠はしたことない」

当時、現場にいた朝日のある記者の証言だ。「あのとき、年配の記者ほど、あれはない、っていう感じだったんですよね。でも学生時代にスポーツを経験している若手記者が結構いて、そういうやつらは、別にいいんじゃないかと。社内でも真っ二つに意見が割れてた感じでしたね」

「不思議でもなんでもないやんか。勝とうと思ったら、あれくらいするの当たり前や(西本幸雄、元近鉄監督)」それでも、山本は納得できなかった。「ほーって、思ったよ。これがプロの考え方なのかなと。でも高校野球ってのは若さをぶつけ合うところやで。高校で失敗できなかったら、どこで失敗できるんや。どこで成長すればいいんや。それをさせてくれない高校野球なんて、おかしいんちゃうか」

「天下の横浜や智弁和歌山の監督にできるかね。俺だからできた。若くて、何も失うもののない俺やったから。やりたいと思ったやつは五万とおるやろ。でも実際にできるやつはおらんよ。後のこととか考えたらな。うちだって、あれでぽしゃっててもおかしくないんやから。ましてや、5敬遠して負けてたら、俺、もう監督しとらんやろ。あの作戦を否定することは、自分の人生、生き様を否定することになるからね。それはできん」もし―――。一度だけだ。馬淵がそんな言い方をしたのは。ソファに腰掛け、天井に向かって紫煙を吐き出しながら。「やっぱり、思うことはありますよ。昔に戻れるんなら、やらず済むんだったら、やらなければよかったって。それ、正直な気持ちですよ」

松井のあのときの言葉は、まだ熱を持ったまま私の心の中に残っている。夢を実現するために小さな子供に言葉をかけるとしたら、という質問の答えだった。松井はじっと考え込んだあと、こう言った。「・・・逃げないことじゃないですか。好きだと思えることからは」