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[伊坂幸太郎] マリアビートル


マリアビートル

マリアビートル

元殺し屋の「木村」は、幼い息子に重傷を負わせた相手に復讐するため、東京発盛岡行きの東北新幹線“はやて”に乗り込む。狡猾な中学生「王子」。腕利きの二人組「蜜柑」&「檸檬」。ツキのない殺し屋「七尾」。彼らもそれぞれの思惑のもとに同じ新幹線に乗り込み―物騒な奴らが再びやって来た。『グラスホッパー』に続く、殺し屋たちの狂想曲。3年ぶりの書き下ろし長編。


この物語のほとんどが東北新幹線の東京から盛岡までの車中で繰り広げられる。狭い空間で繰り広げられるスリル感と新幹線のスピード感の組み合わせだけでわくわくする。前作『グラスホッパー』よりも殺し屋業界を広く鳥瞰したような、「業界」と捉えた描写が面白い。殺し屋の手口も新しいものが出てきて必殺仕事人を彷彿させる。キャラ設定も抜群で寡黙な職人タイプもいれば、七尾のように業界の不運を一身に背負ったようなツキのないキャラもあって一服の癒しを与えている。一番のワル王子が出会うひとみなに聞く「なぜ人を殺してはいけないのですか?」という質問が物語を貫いている。登場人物の答えと読者の答えをつき合わせていくのも面白い。クライマックスに塾講師の鈴木が答えた内容ははっとさせられる答えで、登場人物に「語らせる」ことで世界観を作りあげる伊坂流も健在だ。

「後ろ向きだねえ。地震が起きる、地震が起きるって家に閉じこもっているヤドカリと一緒じゃない」「ヤドカリってそうなのか?」「そうじゃなかったら、どうして家ごと移動しているわけ」「固定資産税を払いたくないからじゃないかな」

感染の経路や潜伏期間、発症した場合に重症となる率などを検討することもなく、一定の人数が欠席したら自動的に学級閉鎖とすることを良しとしている大人たちが、王子には理解できなかった。リスクを負うことを恐れ、責任を回避するため、決められたルールに従う。そのこと自体を責めるつもりもないが、何の疑問も持たず、学級閉鎖を行っていく教師たちからは思考停止の愚かさを感じた。検討し、分析し、決断する能力がゼロだ。

人間には自己正当化が必要なのだ。自分は正しく、強く、価値のある人間だ、と思わずには生きられない。だから、自分の言動が、その自己認識とかけ離れた時、その矛盾を解消するために言い訳を探し出す。子供を虐待する親、浮気をする聖職者、失墜した政治家、誰もが言い訳を構築する。

「正しいことなんてねえだろうが」「そうそう、その通り」王子はうなずく。「世の中にはさ、正しいとされていること、は存在しているけど、それが本当に正しいかどうかは分からない。だから、『これが正しいことだよ』と思わせる人が一番強いんだ」

「仙台?何でそんな街に峰岸が人を呼んでるんだよ。あれか、よく言うオフ会というやつか」桃のため息が聞こえる。「檸檬が言ってたけど、あんたの冗談は本当につまらないね。真面目な男の必死な冗談ほど、笑えないものはない」

「今言ったように、世の中には無数に禁止事項がある。そして、その、さまざまな禁止事項の中でも、取り返しのつくことはまだ、どうにかなるんだよ。たとえば、君から財布を奪っても、そのまま返せば元には戻るし、君の服に水を零しても、最悪の場合でも、同じ服を買ってくれば、物は復活する。僕と君の関係はぎくしゃくはするけれど、かなり元通りにはなる。ただ、死んだ人は取り返しがつかない」

マリア様の七つの悲しみを背負って飛んでいく。だから、てんとう虫は、レディビートルと呼ばれる。七つの悲しみが具体的に何を指すのか、は知らない。が、あの小さな虫が、世の中の悲しみを黒い斑点に置き換え、鮮やかな赤の背中にそっと乗せ、葉や花の突端まで昇っていくのだ、と言われれば、そのような健気さを感じることはできた。