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[伊坂幸太郎] 3652―伊坂幸太郎エッセイ集


3652―伊坂幸太郎エッセイ集

3652―伊坂幸太郎エッセイ集

「喫茶店」で巻き起こる数々の奇跡、退職を決意したあの日のこと、「青春」の部屋の直筆間取り図、デビュー前のふたりの恩人、偏愛する本や映画に音楽、「干支」に怯える日々、恐るべき料理、封印された「小説」のアイディア―20世紀「最後」の「新人作家」が歩んできた10年。


タイトルの「3652」はデビューからの日にちのこと、10年間と2日。伊坂幸太郎という天才作家は多分に父親の影響を受けて育ったのかなと思わせる。小説の元になったものや、彼自身好きな作家や小説、音楽の話などなど。詩的な表現はエッセイでも健在で興味深く読む事ができた。伊坂ファン必読のエッセイだと思う。

「人の一生は、一回限りである。しかも短い。その一生を“想像力”にぶちこめたら、そんな幸福な生き方はないと思う」この非常に魅力的で無責任な言葉に、僕は唆された。

最近、思うのですが、「映画と漫画」は映像を「見せてしまう」という点で同じジャンルですが、そういう意味でいうと、「小説」は「音楽」の仲間ではないでしょうか?
優しさは想像力だ、とよく言います。「世界中の人間が想像力を働かせれば、核兵器なんて一瞬にしてこの世から消える」という作家の言葉も、読んだ事があります。

読書亡羊、という四字熟語が好きです。よく覚えていないのですが、「物事に熱中するあまり、肝心なことを忘れる」とか、そういう意味合いだったと思います。どこかの羊飼いが読書に夢中になって、羊を見失ったのでしょう。その情景を創造するだけで、楽しくなります。

正直なところ僕は、「少年には未来があるから罰を与えることよりも、矯正を考えるべきなのだ」という考え方にはどうも違和感があって、むしろ、「少年だって大人と一緒に厳しく罰しないと駄目なんじゃないの」と考えるタイプなのですが、ただ、家裁の調査官の本を読んだり、M君の話を聞いていると、「正解なんて、ないのかもしれないなあ」と感じるとこをもあり、「答えが出ないものは、小説にするべきなんだ」と常々、思っている僕としては、そこで、調査官の話を書く事にきめたのでした。(『チルドレン』のこと)

小説ならではの喜びとは何なのだ、と言われると僕もうまく答えることができないのだけれど、ただ、映像にしてしまったら零れ落ちてしまうような、そんな部分に小説の楽しみはあるんじゃないかな、とは個人的に信じている。(『ぬかるんでから』佐藤哲也 解説)

「学校の後で、社会経験を積んでいるうちに分かってきたんですけど、家業というのは嫌々やるのが前提なんですよ」と言った。僕はやっぱり噴き出してしまったが、同時に感心した。確かに言われてみれば、嫌々ながらも使命感を持って続けることが家業なのかもしれない。好きではじめた仕事は、嫌いになったとたん終わるけれど、嫌々がベースにあるのならこれはなかなか終わらない。

ネズミの話を知っているか?子供の頃、よく父に言われた。ネズミの話とは「ネズミを用いた実験の話」のことだ。二匹のネズミにちょっとしたショックを与える。一方には突然ショックを与えるが、もう一方には「これからショックを与えますよ」と予告の電気を与えた上で、ショックを与える。それを繰り返すと、予告ありのネズミの方が短命となるのだという。導きだされる教訓はこうだ。「これから起きることを心配していると、長生きしない」もちろん、実際にこういう実験があったのかどうかも、その詳細が正しいかどうかも分からない。

一般的に、よく耳にする言葉が二つある。「プロなんだから、結果を残さなきゃならない。勝てばいいんだよ」。「プロなんだから、お客さんを喜ばせなきゃ意味がない」。どちらも、さまざまな人がそれぞれの立場で、それぞれの信念を持って口にするんだと思う。昔から、どちらが真実なのか判断がつかない。もちろん、「面白い試合をして、なおかつ、勝利する」ことがベストなのは明らかだ。問題は、その次だ。ベターなのはどちらだ。「負けたとしても、面白い試合をする」ことなのか、それとも、「つまらない試合をしても、勝つ」ことなのか。答えはきっとない。両方正解、と言っても良く、その答えを探そうとしても仕方がないのかもしれない。ただ、武田さんの試合を観たり、武田さんを慕っている人の話を聞いていると、そのことを考えずにはいられない。

プロのスポーツ選手、格闘家にとって一番大切なものは何だろう、結果なのか、喜ばせることなのか、と。その答えが少し分かったのは、武田さんの引退試合から一ヶ月ほど経った頃だ。たまたま開いた朝刊に、詩人の谷川俊太郎さんのインタビューが載っていて、そこで谷川さんが次のようなことをおっしゃっていた。
古池や蛙とびこむ水の音 という芭蕉の句にはメッセージも何もないし、意味すらないに等しいけれど、何かを伝えている。
詩とはそういうものなのだ、という話だと思う。それを読み、僕はまず、自分の仕事のことを考えた。小説も同じではないか、と。僕の書いているフィクションには、「こうやって生きなさい」というようなメッセージはない。「○○を伝えたくて書きました」と言い切れるテーマもない。ただ、そうは言っても、「暇つぶしに読んで、はい、おしまい」では寂しい。そういうものではありませんように、と祈るような気持ちも実はある。漠然とした隕石のようなものが読者に落ちてほしい、といつだって願っている。映画や絵画も同じだろうと思い、その後で、武田さんの試合もそうに違いないと思い至った。