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[齋藤孝] 誰も教えてくれない人を動かす文章術


誰も教えてくれない人を動かす文章術 (講談社現代新書)

誰も教えてくれない人を動かす文章術 (講談社現代新書)

「カンタン確実書く技術」決定版。企画書・稟議書・謝罪文・始末書から小論文・就活の自己アピール文・伝わるメールの書き方まで具体的に紹介。


「話す」ことと「書く」ことは圧倒的にちがうスキルが必要だと思います。「弁が立つ」ことと「筆が立つ」ことに置き換えることができます。すごい話し上手な人が書く文章がまあ残念なことは珍しくないですよね(Yasuもどちらかというとこのタイプかと)。「話す」作業は基本的に相手と言葉のキャッチボールを交わしながら進めていきます。返されたボールに対して臨機応変に対応できる賢さ、回転の速さ、動的な実力が求められます。一方、「書く」作業、文章にする作業というのは基本的に一人で行うものですから、地頭の良さが求められ、すべて自分一人の振る舞いであり、静的な力強さが必要です。スポーツで例えると「話す」=「野球」、「書く」=「ゴルフ」と言えるのではないでしょうか。誰だって人の心を動かすような文章を書けるようになる、かどうかはわかりませんが、まずは、自分は文章が下手だ、上手になりたい、と思うところから始めないといけませんね。本書はそんな人に気づきを与えてくれる素晴らしい本だと思います。

私が重視するのは、文章の書き方ではなく、その「内容」のほうです。内容とはすなわち、物事をどう捉えたか、発見は何であるか、ということに尽きます。

あるエピソードに触発されて認識に至るプロセスを書く、というのは文章を書くことの一番の基本です。

私は、ものの見方を変える文章こそが、意味のある文章だと思っています。単に書かれた情報の一部を受け取るのではなく、その文章を読んだおかげで、何かインスパイアされる文章。

文章でも、言いすぎ感はむしろいいアクセントになります。最初に少々きつめのトーンで意見を打ち出したほうが、「つかみ」としては面白い。問題が起きるようなら、後で「これは少し言いすぎたけれど」とトーンダウンさせる手もあるのです。最初から腰の引けたような、毒にも薬にもならない文章を書いてはいけません。

クリエイティブとは、新しい意味が生まれるということです。

知識には、受動的知識と能動的知識というものがあると思っています。受動的知識というのは、「知ってはいるけれども自分で活用できないもの」です。われわれのもっている知識というのは、この受動的知識の割合のほうがずっと多いのではないでしょうか。

他人の意味のある話を文章にまとめるという作業は偉大なのです。

文章というのはほとんど自分の内部に蓄積された他者の認識。

他人の話を引用し、咀嚼し、文章化して定着させる。その作業に慣れてくると、まるでたくさんの他者が自分の中にいて、つねに自分の味方のようになって、彼らの認識の組み合わせでものを書いていくような感覚になってきます。

まず、一番重要な段取りをしましょう。「最後の文章を決める」ことです。一行も書いていないうちに結論となる文章を決定してしまうのは奇異に思えるかもしれませんが、これが固まっていると安心して書き出すことができるのです。

ただ、気をつけてほしいのは、ゴールとして定める結論を道徳的なものにしないということです。「これからは人に迷惑をかけないように生きていこうと思いました」。これはハッキリ言って最悪です。なぜなら、道徳的な結論というのは、あまりにも、「凡庸すぎる」からです。

文章の結論には、もっと発見が必要です。私たちが目指す文章は、凡庸に流れてはなりません。自分の認識や発見をもっともっと込めるべきなのです。

ゴールが決まれば、次に必要な段取りは、スタートの決定です。文章のスタートは、タイトルです。タイトルでたいせつなのは、そこで一気に読書の心をつかむということです。そのためには、ゴールに対する疑問文の形にすることをお勧めします。

一見、無関係に思える二つの事柄をタイトルに持ってくると、それだけでインパクトがあります。漫才などでは「つかみが大事」と言われますが、文章を書く場合も同様です。

ゴールとなる結論の文章を決め、スタートとなるタイトルを決めたら、次の段取りは、通過地点を三つほど定めましょう。

独自の視点の見つけ方は二通りあります。「異質であると思われる二つのものの間にある共通点を見つけること」と、「同質であると思われている複数のものの間に差異を見つけること」です。

ビジネスパーソンに求められる書き方の能力は、「文章」を書く能力ではなく「文書」を書く能力です。この二つは全く違います。

ですからこうした(モニターアンケート)報告書には、データと生の声の二本柱が必要なのです。クールなデータとホットな生の声で両面から攻めると、非常に説得力を持った価値がある報告書になるのです。

読み手が主になるためにはどうしたらいいか。私はまず、読書感想文を「読書エッセイ」だと認識し直すことをお勧めします。「上から目線」と「生意気さ」が意外にも重要なのです。

小説とは、善と悪の勝負を見せるものではなく、「誰が人間的に深いか」を競っている面があります。

自分独自の視点の見つけ方。本の中から「引用したい文」または「好きな場面」のベストスリーを選び、そのベストスリーについて「なぜこの文、この場面が好きなのか」とコメントをつけていく方法です。

文章の論理性が正しいだけではなくて、課題文の論理を他の事象に適用したり、自分の経験に照らし合わせてみたりして、「何かを発見できる」という「視点移動能力」、「気づく能力」を採点者は見ているのです。

アイデンティティ、つまり「自分は何者か」という問いに対し、一つで答えるのはなかなか困難なことです。自分自身の人生の中で直面したクライシスを手がかりに考えていくと、自分にとってのアイデンティティは何かということが分かりやすくなる。挫折の乗り越え方にこそ、その人物の真価と魅力が表れてきます。

弁証法とは、ひと言で言えば、正・反・合のステップによる論理展開法のことです。つまり、あるテーマに対して、まず「正」である賛成意見を述べて、続いて「反」である反対意見をぶつ議論形式にする。最終的には議論の成果である「合」を述べる、というやり方です。これを一つの文章の中で、自分一人で展開するのです。

多くの企業で「顧客第一主義」を掲げていることからもわかるように、売る側、作る側、サービスする側からではなく、お客さんの立場から自分の会社を本気でながめ直す能力が必要なのです。

単純にいうと、あなた自身が「クレーマー」になって、自分の書いた意見に“上手に”クレームをつけていくのです。このモンスター・カスタマーに対し、今度はクレームをつけられた側の弁護人になったつもりで、苦情に対するフォローをしていく。そういう対話関係をあえて採り入れるのです。

文章においては、凡庸さは恥です。

文章を書くときに気をつけなければならないことは、まずは一般論を乗り越えてから書き始めるということです。「一般的にはこうだけれども、自分はこうだ」と、まずは否定すべき一般論を乗り越える。そこから書くことが始まるのです。

文章力とは、この世を生きる力である。