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本、土木・橋梁、野球、お笑い、などについて書いてます。

[伊坂幸太郎] 仙台ぐらし


仙台ぐらし

仙台ぐらし

地域誌『仙台学』の1号から10号まで(2005〜2010年)の連載エッセイ「仙台ぐらし」(全面改稿)と、単発エッセイ1編に、震災後のエッセイ「いずれまた」「震災のあと」「震災のこと」、そして宮城県沿岸を舞台に移動図書館(ブックモビール)のボランティアを主人公とした書き下ろし短編「ブックモビール a bookmobile」を収録。



伊坂幸太郎『3652』のエッセイを読んだが小説に違わぬ面白さ。この2月に刊行された本作品は、2005年から地元紙に寄稿したエッセイ10本と震災後のことを綴ったもの。タクシー運転手との会話を集めた「タクシーが多すぎる」はなかなか面白い。また日頃から重度の心配性だという筆者は、隣室から聞こえてくる口喧嘩から想像を膨らまして殺人事件の容疑者にされるまでに行き着く話など滑稽で微笑ましい。東日本大震災のとき、仙台市内のカフェで小説を書いていたという筆者は、地震後のことを初めて本作でコメントしているのだそう。不安定な生活のなかで小説家の意味を問い、今後小説を書けるのかどうか悩み・苦しんだ姿も赤裸々に告白されていて、伊坂ファンにとって必読書だといえる。最も気になる創作活動について後半下記のように記述があり一安心。最後は震災を題材にした短篇も収められていて、伊坂ワールドはますます健在といえ正直ほっとしたところ。

三月、あの地震があって以降、僕はしばらく、小説が読めなかった。部屋にひっくり返った本を片付けることはおろか、手で触れるエネルギーもなく、音楽も聴けなかった。娯楽とは、不安な生活の中ではまったく意味をなさないのだな、とつくづく分かった。だから、これからいったいどういう小説を書くべきか、という悩み以前に、もう、小説を書くこともできないのだろうな、とそういう気持ちにもなった。(中略)そしてつい最近のこと。友人のもとに、海外の知り合いからメールが届き、次のようなことが書いてあったらしい。「Keep going, and keep doing what you're doing.....keep dancing.」(今やっていることをやり続けなさい)その言葉は僕にとって、一つの(唯一の)真実にも思えた。自分のやっていることの意義や意味は分からない。罪悪感や後ろめたさもたくさんある。ただ、とにかく、今やっていることをやり続けなさい。今踊っているダンスを踊り続けなさい。それ以上のことを、自分の仕事において考えることは傲慢にも思う。僕は、楽しい話を書きたい。P163

「ライターをやっているんですよ」と僕は答えた。最近は仕事を聞かれると、いつもそう言うことにしていた。小説家という言葉の持つ雰囲気は、僕の現状よりも偉そうな気がするし、以前、知人に、「本を作るのにいくらかかるの?ああいうのって、家にたくさん余ってるんでしょ。一冊もらってあげるよ」と言われて以来、「小説を書いている」とはなかなか口に出しにくくなっていた。P12

「そうだよな。空いてて、隠れ家的だったし」「空いてて、隠れ家的だったら、そりゃ、閉店するよね」P36

まだ、ミルクコーヒーはあるのだろうか。無性にそのことが気になりはじめた。僕自身は、「気になりはじめると、いえもたってもいられない行動派」ではない。ただ、どういう気紛れだったのか、確かめに行こう、と思いたち、それで久しぶりに東北大学のキャンパスへと向かうことにした。P39

軽いショックを受けた。地味で目立つことのない友人が、実は、有名な役者だと分かったかのような、もしくは、自分だけがファンだと信じていたロックバンドが紅白歌合戦に出場すると知ったかのような、そんな感覚に襲われた。P41

「自分が作った野球部の後輩たちが、甲子園に出たような気持ちです」取材の最中、ふと思い、口にしたのだが、まさにそれがぴったりだった。P112

一方、几帳面で、奇麗好きの妻はお掃除ロボットに頼ることなく、自分でも掃除機をかけているのだが、五年前に購入した、従来の掃除機を眺めながら、「お掃除ロボットがやってきて、こっちの掃除機はいったいどんな気持ちなのだろうか」と悲しいことを口にした。P127

何もありません、と胸を張って言えるのは、自信の裏返しだ。P133

(復旧工事中の仙台駅を)眺めているうちに、中学生の頃、手首を骨折した時のことを思い出した。覆われた仙台駅が、包帯を巻かれた腕と重なった。震災で僕たちは、僕たちの町は、もっと範囲を広げれば僕たちの国は、あちらこちらの骨が折れた。心が骨折したとしかいいようのない感覚に襲われている。でも、そうであっても、包帯をしっかり巻き、自分たちを労り、時にリハビリをし、そして何よりも捨て鉢にならずに日常を続けていけば、いずれまた骨は繋がるのではないか、そうなればいいな、と縋(すが)るように思う自分がいるのも事実だ。P143

ふとナンバープレートを見ると、「新潟」と書かれていることに気づいた。「あ、新潟から来たんだ」と誰かがぼそっと言うと、別の誰かが、「夜、出てくれたんだね」とささやく。言われて、はっとした。確かに、その時間に仙台に到着しているということは、夜のうちに新潟を出発してくれたのかもしれない。準備やら移動を考えると、地震のことを知って、さほど時間が経たぬうちに、こちらを助けるために出てきてくれたのだろう。あちらこちらでそういった人が、働きはじめているに違いなかった。感動というべきなのか、感謝というべきなのか。もしかすると震災後、最初に泣いたのはその時かもしれない。P153

東京にいる知人が、「佐川急便が営業所までなら運んでくれるようになった」と連絡してくれた時だ。彼は、「そこにカップラーメンやら何やら、どんどん送ります。知り合いがそれを全部取りに行って、自動車でみんなに配ります」とメールで送ってきた。そして、「お願いしたいことは二つあります。一つは、被災地以外の知り合いで、物資を送ってくれる人がいたら、呼びかけてくれませんか?」とあり、「もう一つは」と続いていた。「もう一つは、もし、カップラーメンが大量に余ったら、一緒に食べて下さい」と。それが可笑しかったのか、それとも頼もしかったのか分からないが、その頃、原発事故のニュースに見入って、怯えてばかりだった僕は、少し気持ちが楽になり、やはり泣いた。役に立たない人間ほど、よく泣く。そういう諺があってもいいようにも感じる。P154