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[重松清] 卒業


卒業 (新潮文庫)

卒業 (新潮文庫)

「わたしの父親ってどんなひとだったんですか」ある日突然、十四年前に自ら命を絶った親友の娘が僕を訪ねてきた。中学生の彼女もまた、生と死を巡る深刻な悩みを抱えていた。僕は彼女を死から引き離そうと、亡き親友との青春時代の思い出を語り始めたのだが―。悲しみを乗り越え、新たな旅立ちを迎えるために、それぞれの「卒業」を経験する家族を描いた四編。著者の新たなる原点。


身近なひとの「卒業」を描いた4作品からなる短編集。卒業=終わりであり始まりでもある。人の死は当人にとっては終わりであり、残された人々にとってみれば始まりであるわけで。筆者があとがきで書いているように根底には「ゆるす/ゆるされる」をテーマとしていて、最後の『追伸』はまじ泣ける。

『卒業』で描いた「自殺」のモチーフは、個人的に最も大きなーーこれからも繰り返し挑む主題である。


重松氏にとって「死」や「自殺」を描いていくことはライフワークであり永遠のテーマであることを知って納得した。

マスクをつけさせられたことよりも、みんなに励まされたことのほうがつらかったーーずっとあとになって、まゆみは言った。


「ひとに迷惑をかけるんは、そげん悪いことですか?」母はやはり愚かなひとだったのだろう。だが、いま、その愚かしさを、なんとなくくすぐったく思い出す。もう二度と聞くことができない母の声を、僕は、自分が生きている間ずっと覚えていられるだろうか。(まゆみのマーチ)

専門の日本史の授業よりも、クラス担任や生活指導の仕事のほうに、教師としてのやり甲斐を感じていた。「日本史の授業なんて、社会に出てもたいして役に立たないんだ。でもな、学校という場で学んだことは、絶対に社会でも必要なことなんだ」ーー父にとっての学校という場は、甘やかされて育った子どもたちに秩序と厳しさを教える場だった。未完成な子どもを少しでもおとなに近づけることが、父の考える教師の使命だった。


「ウチの両親もそうだったけど、あれをしたいとか、これが欲しいとかって、やっぱり体力や気力が要るのよ。なにかを欲しがっているうちは、まだだいじょうぶっていうか・・・最後の最後は、そういうのも、ぜんぶ消えちゃうんだと思うのよね。ほら、思い残すことはなにもないって言うじゃない、それって、ほんとうだと思う。最後まで思い残しや後悔を背負ったままだとつらいでしょ。だから、最後の最後は、ちゃんと消えてなくなるようにできてるんだと思う、人間って」


あおげばとうとし、わが師の恩ーー。中学生の頃、「先生に感謝する歌を生徒に無理やり歌わせるのって、おかしくない?」というと、本気で叱られた。


話すことができなくなり、視力を失ったあとも、聴力は最後の最後まで残っているものらしい。「たとえ返事や反応がなくても、とにかくたくさん話しかけてあげてください」と医師に言われている。「ひとの声ほど心を癒すものはないんです」とも。


その夜、同僚に電話をかけて翌日から忌引きをとることを連絡した。「親父、さっき死んじゃったんだ・・・」生まれて初めてのーーそして、もう二度と口にすることのない言葉を告げたとき、胸の奥がうずいた。(あおげば尊し)

試験前に英単語を覚えるように、自分の生まれる前の時代の出来事を勉強するーー亜弥にはそれしかできないんだとわかっていても、そこからこぼれ落ちてしまうものは絶対にある。そして、こぼれ落ちてしまうもののほうが、実際にその時代を生きてきた僕たちにははるかに大切なものだとも思う。


ひとは、どんなときに死を選んでしまうのだろう。絶望でも悲しみでも、借金でも身内の不幸でも失恋でもなんでもいい、自殺に価する条件が揃ったとき、なのだろうか。そんなに割り切れるものではないような気がする。コップの水は満杯になってからあふれてしまうわけではない。ほんのわずかでも、コップそのものが傾いてしまえば、こぼれる。誰のコップも、決して空っぽではないだろう。コップは揺れている。きっと誰もが、それぞれの振れ幅で。(卒業)

年を取ったんだな、とあらためて思う。このひとと僕は、長い年月を生きてきたんだな、と噛みしめる。僕の背負ってきた寂しさと、ハルさんの背中にある寂しさは、どちらが重かったのだろう。初めてだ、そんなことを思うのは。(追伸)