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[富永俊治] 阿波の「攻めダルマ」蔦文也の生涯

甲子園に初めて出場するまでの20年に及ぶ悪戦苦闘の日々から「やまびこ打線」によって結実した栄光まで、全精力を注ぎ続けた愚直なまでの甲子園挑戦史。


高校野球史に一時代を築いた池田高校野球部監督の蔦文也氏の壮絶野球人生。小学生のころテレビで見たやまびこ打線は強烈な印象だった。率いる白髪頭の監督は田舎の好々爺の雰囲気で今で言う癒し系のそれ。戦中の特攻隊経験、プロ野球は1年でクビ、監督就任から甲子園出場までに20年を要している自身の生い立ちから滲みでる持論が「人生は敗者復活戦ぞよ」。古き良き時代に咲いた名物監督である。

選手たちが「甲子園」の夢を見続けることができるのは高校生である三年間と限られているが、その点、幸せなことに監督には時間的制約などはない。毎夏、夢破れるたびに蔦は自らにこう言い聞かせ、次なるチャレンジに闘志を掻き立てた。繰り返すこと実に二十年。黒々としていた蔦の頭も半分は白くなっている。それが蔦の挑戦の歳月を雄弁に物語ってもいた。P8

蔦が恩師を語るとき、常に登場するエピソードがこれだ。稲原流「野球水炊き論」である。なぜ稲原が涙したのかといえば、それまでの練習方法が正しかったのだろうか、という疑問に突き当たったからである。「野菜それぞれが自分の味を持っている。これは野球だって同じのはずだ。それぞれ個性を持っている選手たちに、自分は十把ひとからげの練習を強いてきた。それぞれの個性を伸ばしてやる指導こそが一番必要なのに…。自分は選手たちにすまないことをしてしまった」P26

「ワシから野球をとったら酒しか残らん。酒をとったら野球しか残らん」P64

その答えは徳島県教委の粋な計らいにあった。どの世界にも知恵者は存在するもの。種を明かせば、池田高教諭である蔦の異動先は何と池田高定時制教諭だった。そして定時制教諭として一定の期間が過ぎれば、今度は同じ池田高全日制への異動である。この繰り返し。甲子園出場は成らなくても、年を経るごとに「池田の名物監督」として徳島県内でその名が知れ渡るようになった蔦への、杓子定規な役人とは異なる県教委の柔軟な配慮がそうさせたのだった。むろん背景には蔦の身辺にいる人々の働きかけがあったことは容易に想像がつくが、ともあれ池田が県西部における中心的な高校で、そのために定時制を併設していたことが、蔦にはこれ以上はない幸運となったのだった。P76

「やっぱりワシは徳商の監督よりも、池高の監督の方が性に合うとる。誰が監督をやっても勝てるような強い高校より、池田高のようなチームで甲子園を目指す方が、ワシには似合うとると思うんよ。大企業の経営者より、零細企業のオッサン。それがワシの生きる道じゃ」P79

ともあれ、選抜大会を境として、その所在地を含めて「池田」は一躍全国区にのし上がった。たった十一人しか部員がいなくても、全国大会で準優勝に輝いた事実。しかも野球強化に重点を置いている高校ではなく、人口二万ほどの小さな町からやってきたごとく普通の県立高校がそれをやってのけたところに、人々が喝采を読んだりゆうがあった。大会中、池田には「さわやかイレブン」の愛称が定着したが、それにとどまらず、こんな讃辞さえ贈られた。
後年になってのことだが、蔦は当時の心境をこう振り返っている。「さわやかイレブンと言われたが、ホンマのことを言えばワシは少しもさわやかではなかった。最初部員はもっとおったんよ。それがワシの練習についてこれんで次々にやめていった。最後まで残ったんが、あの十一人だったというわけよ。部員を減らしたんはワシであり、さわやか、さわやかと言われるほど、ワシは複雑じゃった」

「人生は敗者復活戦の繰り返し」が蔦の人生訓であり、蔦は「負けることは恥ずかしいことでも何でもない。負けたらまたチャレンジすればいいことぞ。本当に恥ずかしいんは、負けたことで人間が駄目になってしまうことじゃ」と言い続けた。P184

「箕島との比較? はっきりしとるんは監督の差じゃね。向こうの尾藤はんは、若いんに実にしっかりしとる。その点、ウチはただの田舎のオッサン。逆立ちしても尾藤はんにはかないまへん」

それでも蔦は余裕たっぷりだった。だが、その余裕が災いしてか、蔦は静岡戦でとんだ失態を演じる。前夜の深酒がたたり、二日酔い状態で指揮を執ったのである。前夜ということは開幕日であり、激励に訪れる宿舎への来客は普段の倍。喜んだ蔦は試合前夜であることを忘れ、ついつい酒量がかさんだためだった。結果、酒臭い息を吐いて球場入りした蔦の両足のストッキングは前と後ろが逆。試合中は前日に選手たちと打ち合わせたサインを忘れてしまい、ベンチの選手に確認する始末。あげくは面倒くさくなり、盗塁の場面では一塁走者を指差して「二塁に走れ!」と大きなゼスチャーで指示をだしたほど。当然、これは相手に見破られてウエストされ、走者が二塁ベースのだいぶ手前でタッチアウトになるしーんもあった。P204

「二時間半の命かな」球場に着くと同時に報道陣から取り囲まれた蔦は、笑みを浮かべつつ、準々決勝の早実戦に臨む心境を語った。P209

「みなさん、この通りです。明日はワシを日本一の監督にしてください」
畠山ら選手たちは「三度目の正直」に並々ならぬ意欲を燃やす蔦の本心を痛いほど感じ取っていたが、蔦自身の口から初めて聞く本音に、畠山は改めて身が引き締まった。ところが、続く蔦の言葉は「先生はそんなことを考えていたのか」と、畠山が一度は耳を疑ったほど意外なものだった。
「それはのう、ワシが優勝監督いう名誉や肩書きが欲しいて言うてるんとは違う。ウチが優勝すれば、大会の後に発表される全日本の監督にワシが選ばれると思う。監督になればワシがメンバーを選べる。ワシは、ウチのレギュラー全員をオールジャパンに選びたいんぞ。そのためにも優勝したいんじゃ」P218

決勝戦から、一週間後の八月二十七日、蔦は大阪球場にいた。日韓親善高校野球大会の日本代表監督として、である。大会は計3戦。結果は韓国高校代表に1勝2敗と負け越したものの、蔦は甲子園同様に至福の時間に浸った。決勝戦前夜、エース畠山に心情を吐露した通り、全日本には池田のレギュラー九人をそっくり選び、他は荒木大輔ら早実勢三人を含む八選手。これほど極端な人選など空前のことだが、池田の圧倒的な勝ちっぷりから異論は出ず、むしろ当然の人選と受け止められた。夢が叶った蔦。これほど冥利に浸った采配もなかったろう。P227

バントに代表される小技を駆使して得点を重ね、それを堅守で守り切るストイックな野球が主流だった甲子園に、攻撃一辺倒にも等しいアグレッシブな野球を持ち込んだ蔦と池田ナイン。この痛快野球は甲子園に一時代を築くと同時に、それまでの甲子園戦法を一変させもした。P263

「人生は敗者復活戦ぞ」の信条通り、蔦はくじけることなく飽くなき挑戦を続けた。さらに「野球で一番楽しいんは打つことぞ」の信念を貫き通した監督生活。野球部長として蔦と名コンビを組んだ白川は「こと野球に関し、あれほど純粋な人を知りません」と蔦を評する。そして高校野球の指導者で、蔦ほど人々から愛された人物はいなかったのではあるまいか。それはなぜか。こたえは、白川が言う蔦の「純粋さ」に集約されるだろう。愚直と言い換えてもいいほどの、真っ正直な攻撃野球。甲子園の主流を占めていた技巧派野球とは対極に位置し、甲子園戦法に革命をもたらしたと称えられた、ひたすら快音を響かせる有無を言わせぬ攻撃一辺倒の野球が、人々が持つ日常の憂さを晴らさせもしたからだ。加えて、四国の山あいに位置する過疎の町という池田を取り巻く環境と、自ら「大酒飲みの田舎のオッサン」と証する古武士然とした蔦の風貌と。そして、順風満帆な監督生活を送ってきたわけでは決してなく、逆に挫折の歴史を背負ってきた人物だと知れば、人々が蔦と池田ナインに肩入れしたのも、むしろ当然の帰結だった。P271