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[伊坂幸太郎] オーデュボンの祈り


オーデュボンの祈り (新潮文庫)

オーデュボンの祈り (新潮文庫)

コンビニ強盗に失敗し逃走していた伊藤は、気付くと見知らぬ島にいた。江戸以来外界から遮断されている“荻島”には、妙な人間ばかりが住んでいた。嘘しか言わない画家、「島の法律として」殺人を許された男、人語を操り「未来が見える」カカシ。次の日カカシが殺される。無残にもバラバラにされ、頭を持ち去られて。未来を見通せるはずのカカシは、なぜ自分の死を阻止出来なかったのか?


これはめさくさ面白かった。文中に出てくる巧みな比喩や伏線の張り方はデビュー作とは思えない。主役の伊藤、伊藤の同級生だった警察官の城山、伊藤の元カノ、轟、日比野、伊藤の祖母、桜、園山、草薙、草薙の妻百合、日比野の同級生で小山田、カカシの優午、ウサギ、ジョン・ジェームス・オーデュボン、徳之助、禄二郎。登場人物のキャラ設定が抜群にいい。現実離れしたファンタジーな話だが、優午の死の真相が明かされていくラストの奇跡は鳥肌もの。アマゾンのレビューでは評価は分かれるようだが、個人的にはこういった美しい言葉がちりばめられた作品は好きだ。
事実を論理的、直線的に伝えるのが旨い東野圭吾。カットバックなど時間の使い方が巧みでタイムマシーン的に物語を立体的に表現する伊坂幸太郎、人気作家の二人は好対照な気がする。サラリーマンでいうなら、エンジニアの東野、営業マン(実演販売なら天職)の伊坂幸太郎ってとこか。

「人生ってのはエスカレーターでさ。自分はとまっていても、いつのまにか進んでいるんだ。乗ったときから進んでいる。到着するところは決まっていてさ、勝手にそいつに向かっているんだ。だけど、みんな気がつかねえんだ。自分のいる場所だけはエスカレーターじゃないって思っているんだ」

不意に、伊藤の言葉を思い出した。「君がいなくなって困るのは君が重要な仕事を握っちゃっているからだ。一回、それを手放してみろよ」最後に会った時の、台詞だ。

ああいった話に出てくる探偵たちは、事件が起きるのを防ぐためではなく、解き明かすために存在している。全てを解き明かすのだが、結果的には誰も救わない。僕の読みかけの小説を、静香が勝手に読んで言ったことがある。「この名探偵というのは何のためにいるか、知ってる?私たちのためよ。物語の外にいる私たちを救うためにいるのよ。馬鹿らしい」興味深い意見だ、と僕も思った。

「一人の人間が生きていくのに、いったい何匹の、何頭の動物が死ぬんだ」桜の声は、答えを求めているように聞こえなかった。「考えたこともなかった」「これからは考えろ」と命令するように彼は言った。「動物を食って生きている。樹の皮を削って生きている。何十、何百の犠牲の上に一人の人間が生きている。それでだ、そうまでして生きる価値のある人間が何人いるか、わかるか」僕は黙っている。「ジャングルを這う蟻よりも価値のある人間は、何人だ」「わからない」「ゼロだ」

不思議なものだな、と僕は思った。この島にやってくるまでの僕は、常識人で、隙のないプログラムを設計し、失敗のない歩き方を目指すタイプだった。くだらない娯楽にうつつを抜かしたり、出張時に鈍行列車に乗って風景を楽しむことなど、馬鹿にしているところもあった。それが、荻島なる未知の土地で数日暮らしているだけで、子供のように馬鹿げた想像を巡らしたり、のんびりと歩き回ったりしている。昔の僕は、きっと今の僕を嘲笑うだろうな、と思えた。

いや、たぶん彼は、真実なんて大嫌いですよ、と僕は内心にだけ言った。偽りが嫌いだ、と公言する人間を、僕はさほど信用していない。自分の人生をすっかり飲み込んでしまうくらいの巨大な嘘に巻かれているほうが、よほど幸せに思える。

犯罪を止めることはできない。でも、真相は指摘できる。僕がその探偵本人であったら、こう叫ぶだろう。「何の茶番なのだ」と。自分はいったい誰を救うのだろうか、と頭を掻き毟る。

 

「そんなに気落ちするなよ。勘が外れることだってある」と言ってくれる。「でもさ」と僕は顔をしかめた。「自分の投げた矢が絶対、的に当たっているものだと思っていてさ、それがてんで外れた地面に突き刺さっていたら、寂しいじゃないか」「そういう時はだ」彼は足取りが軽い。「落ちた場所に、自分で的を書けばいいんだよ」