Yasublog

本、土木・橋梁、野球、お笑い、などについて書いてます。

[内田樹]呪いの時代


呪いの時代

呪いの時代

巷に溢れる、嫉妬や妬み、焦り―すべては自らにかけた「呪い」から始まった。他者へ祝福の言葉を贈ることこそが、自分を愛することになる―呪いを解く智恵は、ウチダ的“贈与論”にあり。まっとうな知性の使い方と時代を読む方程式を考える一冊。


筆者のブログを拝読することがあるのですが、今回初めて著書を手にしました。本書1/3くらいは内容が難しすぎて読み飛ばしたけれど、とても興味深く読むことができました。またじっくり読み返してみたいと思います。


↓筆者のブログでYasuの好きな記事です

コピペはダメだよ、について (内田樹の研究室)

就活についてのインタビュー (内田樹の研究室)


新しいものを創造するというのは、個人的であり、具体的なことです。そらは固有名詞のタグのついた「現物」を人々の目の前に差し出して、その視線にさらし、評価の下るのを待つということです。いわば、自分の柔らかい脇腹を鋭利な刃物に向かって差し出さなければならないということです。創造する者は、匿名性にも忘却にも逃れられない。自分で創ってしまった「物」がそこにあるのですから、逃げも隠れもできない。

だから、全能感を求める人はものを創ることを嫌います。創造すると、自分がどの程度の人間であるかがあからさまに暴露されてしまうからです。だから、全能感を優先的に求めるものは、自分に「力がある」ことを誇示したがるものは、何も「作品」を示さず、他人の創り出したものに無慈悲な批評を下してゆく生き方を選ぶようになります。

でも、現在の教育現場では「君たちには無限の可能性がある」という激励は許容されても、「身の程を知れ」、「分をわきませろ」というアナウンスに対してはつよい抵抗を覚悟しなければなりません。そんなことをうっかり口にした教師には生徒や保護者たちから猛然たるバッシングを受ける覚悟が必要です。

教育の現場では、「君には無限の可能性がある」という言明と、「君には有限の資源しか与えられていない」という言明は同時に告げられなければならない。矛盾した言明を同時に告げられることではじめて子どもたちのうちで「学び」は起動するのです。

わかりにくい理路かも知れませんが、ですから、努力することへのインセンティブを傷つけるというのが社会的差別のもっとも邪悪かつ効果的な部分なのです。「努力しても意味がない」という言葉を、あたかも自分の明瞭の証拠であるかのように繰り返し口にさせ、その言葉によって自分自身に呪いをかけるように仕向けるのが、格差社会の再生産の実相なのです。

つまり、現代人が自我の中心に置いている「自分らしさ」というのは、実はある種の欠如感、承認要求なのです。「私はこんなところにいる人間ではない」、「私に対する評価はこんな低いものであってよいはずがない」、「私の横にいるべきパートナーはこんなレベルのものであるはずがない」というような、自分の正味の現実に対する身もだえするような違和感、乖離感、不充足感、それが「自分らしさ」の実体です。

コミュニケーション感度のよい人というのは、シグナルになる以前のノイズ、前記号的なものを感知して、それを情報に繰り上げてゆく能力が非常に高い。「人を見る眼」というのがまさしくこのことです。対面する人間の不安や欲望を見通し、その才能や器量を考慮し、適切に対処することはこのような観察力なしには成り立ちません。

これはアメリカ以外の国民国家ではできない芸当です。なぜなら、ふつうの国民国家は気がついたらそこにはもう人が住んで暮らし始めていた。その既成事実の上に、事後的に「民族」や「国民」という物語を外付けしたからです。アメリカはそうではありません。
アメリカの場合、まず「あるべき国」についての物語があり、その条件に同意した人々をメンバーとして受け容れた。なぜこの国が存在し、この国の歴史的使命は何かということについて「原点」における契約書が存在する。

就職情報産業を悪く言うつもりはありませんが(もう十分言ってますけど)、このビジネスが「どのような仕事に就いても、『これがほんとうに私の天職なのだろうか』という不安から決して自由になれない人々」を量産することによって利益を上げるビジネスモデルであることは自覚しておいた方がいいと思います。

つまり、「婚活」ビジネスというのは、一度でも「赤い糸で結ばれた世界でただひとりの人がいる」というイデオロギーを内面化してしまった人間に対して生涯にわたって、結婚に関わる全ての活動に課金できるシステムなわけです。まことにアクマのような狡知というべきでありましょう。

この仕事が開発する能力は単に結婚生活を支援するにとどまらず、きわめて汎用性の高いものです。というのは、一見するとランダムに生起する事象の背後に反復する定常的な「パターン」の発見こそ、知性のもっとも始原的な形式だからです。地面に座り込んでじっと蟻の行列をみつめている子どもや、路傍の雑草に見入っている子どもや、砂浜で寄せては引く波を数えている子どもは、そこに繰り返される「パターン」の気配を感じて、全身の感度を最大化しています。自分の「仮説」が正しければ、次にあの「パターン」が再帰するはずだ・・・そう予測しながら自然物をみつめている子どもはすでに小さな科学者です。

草食系男子という「生き方」はこの「弱いふりをすることで自己利益を増大させる世渡り術」からの一種のスピンオフではないかと僕は思います。

贈り物というのは、それ自体に価値があることが自明であるようなものではないのです。贈り物は受け取った側が自力で意味を補填しないと贈り物にならない。挨拶を送った側が返礼がないと傷つくのともそれで説明ができます。挨拶を返さない人は「あなたが発した空気の振動には何の価値もない」という判定を下した。僕たちはそのことに傷つくのです。

人間が持つ能力は、能力それ自体によってではなく、ましてやその能力が所有者にもたらした利益によってではなく、その天賦の贈り物に対してどのような返礼をなしたかによって査定される。僕はそう思っています。

「炭坑のカナリア」という表現がありますね。鳥は人間がまだ気づかないうちに有毒ガスを感知して騒ぎ出す。命にかかわる危険に対する感知能力というのは必ず「炭坑のカナリア」的な形をとります。誰も倒れないうちに倒れる能力。僕はそれを「能力」と呼んでいいと思います。

科学性というのは端的に言えば、「世界の成り立ちについてのあらゆる理説には賞味期限があり、かつそれが適用される範囲は限定されている」という腹の括り方のことである。言い換えれば、自分の使える知的な道具の有限性、自分が準拠している度量衡の恣意性、自分が事象を考量するときに利用する計測機器の精度の低さについての自覚のことである。さらににべもない言い方をすれば、「自分のバカさ加減」についての自覚のことである。

「真理だけを語る少数の人間たち」だけを例外的に優遇するよりも、圧倒的多数の「間違ったことを語る人間たち」に「自分が間違っていることを自覚する」チャンスを保証する方が、「人類という種」のトータル差し引き勘定ではプラスになる。理非判定の公共的な場が立ち上がると、人々の語り方が変わる。「自説の正しさをうるさく言いたてる」ことを控えて、「自らの仕事を、それを行わなかった誰か他の者に説明しようと」試みるようになる。

私たちの意識を批判することから提言することへ、壊すことから創り出すことへ、排除することから受け容れることへ、傷つけることから癒すことへ、社会全体で、力を合わせて、ゆっくりと、しかし後戻りすることなくシフトしてゆくべき時期が来たと私は思っている。