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[渡辺一史] 北の無人駅から


北の無人駅から

北の無人駅から

単なる「ローカル線紀行」や「鉄道もの」ではなく丹念な取材と深い省察から浮き彫りになる北海道と、この国の「地方」が抱える困難な現実―。新たな紀行ノンフィクションの地平を切り拓く意欲作。


著者自身が12年にもおよぶ北海道各地の取材をもとに、過疎地に住む人々や景色を素のまま丁寧な言葉で描いた800ページにおよぶローカル・ヒューマン・ノンフィクション大作。タイトルを見ると旅情をくすぐる紀行本と思うかもしれないが(Yasuもそう思って手にとった人だが)、実際はそれだけではない。札幌、小樽、函館、旭川、富良野などに代表される観光地を描いているわけではなく、開拓時代に栄え今は過疎化を辿っているまちを取り上げている。前者の観光地を「光」とするなら、ある意味「影」にあたるまちである。昔はたくさんの人でにぎわい国鉄職員も多く存在したが今は無人となった駅を起点として、開拓時代の鉄道敷設の歴史、観光と自然保護、動物と人間の共生、専業農業と片手間農家、ニシン漁の栄枯盛衰、林業、人口減をたどる村の自治など、どこの地方も抱えている普遍的問題を、現地の人々への取材を通して、地に足着いた目線でかわりやすい言葉で描かれている。そういう意味で本書は評論家が知識だけで書くものとは一線を画す良書だと断言できる。行きたい観光地人気ナンバーワンで、「広大な景色、海や大地の恵み、北海道やっほー!」と北の大地にあこがれを持つ人は多い。一方で本書に登場するまちや人々にもオモイを馳せることで、北海道を応援する気持ちを持ちたいと感じた。分厚くて読了に2ヶ月かかったけど、自分の足では一生かかっても知ることができないであろうローカル線の物語を2500円で読めるのは何とも安い!

  • 第1章 「駅の秘境」と人は呼ぶ【室蘭本線・小幌駅】・・・P11
  • 第2章 タンチョウと私の「ねじれ」【釧網本線・茅沼駅】・・・P93
  • 第3章 「普通の農家」にできること【札沼線新十津川駅】・・・P191
  • 第4章 風景を「さいはて」に見つけた【釧網本線・北浜駅】・・・P363
  • 第5章 キネマが愛した「過去のまち」【留萌本線・増毛駅(上)】・・・P465
  • 第6章 「陸の孤島」に暮らすわけ【留萌本線・増毛駅(下)】・・・P551
  • 第7章 村はみんなの「まぼろし」【石北本線・奥白滝信号線】・・・P651

普通、自然というのは、ただ見ていればおもしろがれる、というものではない。たとえ子ヅルが鳴きからしていたとしても、「ギャアギャアうるさいな」としか感じられない人もいるだろうし、たとえば、目の前にタンチョウが5羽いたとしても、それを「タンチョウが5羽いた」としか書けない人と、「3羽の親子づれたと、1組のつがいがいた」と書ける人とでは、物事の見方、捉え方に雲泥の差があるのだと思う。P142


オオカミとの毎日のつきあいにおいて、やさしさ一辺倒では役に立たない。やさしさと厳しさのメリハリが重要だという。それはオオカミとの関係にとどまらない。以前、私がハウリンケイズで乗馬をさせてもらったときのこと。乗馬体験が初めてで馬の扱いに手こずっていると、桑原さんはこんなことをいった。
「絶対に言うとおりにさせるぞっていう気迫が大事なの。完全になめられている。声が『行くよ!』だから。『行くぞ』じゃないと。一番大事なのは気持ちの問題。やさしいだけだと馬だって蹴ってきますし、噛んできます。マルチーズだって牙を剥いてきます。動物はつねに順位関係を見てますから。P160


さらに、こうした日本人のオオカミ駆除に拍車をかけたのは、明治以降、急速に取り入れられた西欧文化の影響も大きかったといわれる。もともと日本人は、オオカミに対しては好意的なイメージを抱いていた。むしろ、農耕文化が基盤だった日本では、オオカミは、田畑を荒らすシカやサル、イノシシなどの「害獣」を退治してくれるありがたい存在として敬われていた。オオカミを「大口真神」と呼んで祀った神社も全国各地に存在するほどで、埼玉県秩父市にある「三峰神社」などはとくに有名だ。P163


 オオカミは、自分たちが無制限に増えると、獲物を食い尽くして自滅してしまうため、オオカミどおしで殺し合いをして自らの数をコントロールするというのだ。オオカミは一般的に血縁関係を中心に群れをつくるが、テリトリー内で見知らぬオオカミや群れに出会うと、相手を殺すまで闘うのがオオカミ社会のルールとなっている。そのため、一定以上増えすぎたり減りすぎたりせず、獲物のシカも適正数にコントロールされるという。オ オカミとはじつに不思議な動物である、と話を聞いて私も思う。
すでに絶滅して姿を消してしまった動物を、他の国や知地域から移入して復帰させることを保全生態学の用語で「再導入」という。トキやコウノトリを、中国やロシアから「再導入」し、野生復帰させるための試みが、いま新潟県と兵庫県で活発に行われている。P169


つまり、欧米のモノサシでは、とても「農家」とみなされないような農家が、日本では「農家」に分類され、保護政策の恩恵をたっぷり受けながら、非効率で高コストなコメづくりを続けてきた。その多くは、じつは「農家」といいながら、会社勤めや地方の役場勤めのサラリーマン(給与所得者)というのが実態であり、仕事のかたわら副業として農家をする”片手間農家”が、大半を占める。
そして、勤めのない週末や早朝にだけ農業を手がけながら、資産価値の高い農地を手放したくないといった種々の事情から、申し訳程度の農業収入を維持している。本来であれば、離農してもおかしくないような農家が、農地を手放してくれなければ、意欲的な専業農家だって農地を広げることができない。なお悪いのは、そうした「片手間農家」が、自民党政権の強固な支持基盤となって、JA(農協)の強い政治力を背景に、「保護貿易主義」の後押しをしてきたことだ。農村を「票田」とする自民党に、積極的な「離農政策」が打ち出せるはずはない。そのため、零細農家はなくなるどころかむしろ温存され、農地は細分化されたまま、戦後60年以上が経過した。
結局のところ、日本の農業問題を、どうにもややこしいかたちに歪め、誰にも一筋縄では解決不能な袋小路に追い込んできた最大の病根が、こうした都府県の「兼業農家問題(零細農家問題)」にあることは、これまで多くの論者が繰り返し指摘してきたとおりである。(北海道ではなく内地のはなし)P203


しかし、このときの「危機感」から、まさに北海道米の反撃は始まったのだった。同年から、道内農業関係者らが一丸となって、良食味の新品種開発をスタート(優良米の早期開発試験)。のちに、全国に先駆けた「クリーン農業技術」の開発(平成3年)や、さらには後述するような、どこよりも競争原理を強烈に働かせた全国一厳しいランキング制度と出荷体制(平成14年)を導入することにつながっていく。今では、コメの需要実績で全国一を達成するほど、みごとな巻き返しを実現できたのは、ひとえにこの時代の危機感をバネに、「売れるコメ、おいしいコメ」を作れる農家や産地を積極的に評価する一方で、その「甘え」をいかに封じ込めるかに主眼を置いた制度設計にあった。それは、北海道独自の「農業改革」だったといえる。P212


当たり前といえば、当たり前の話だろう。非主業農家は、サラリーマン収入がある上に、さらに農業収入と各種補助金が加算されるのだから。しかし、事態がさらに複雑なのは、彼らの作るコメの方が、総じて市場評価が高く、魚沼産コシヒカリを筆頭に、ブランド力もあり、なおかつ消費者に好まれることだ。じつは、全国のコメ生産の約6割を担い、日本のコメのクオリティーを支えているのは「片手間農家」の作るコメだという現実がある。つまり、市場原理をそのまま推し進めれば、日本から姿を消してしまうのは、効率的で低コストな農業に取り組む主業農家や大規模農家の方であり、生き残ってしまうのは、非効率で高コストな「片手間農家」ばかり、という事態も起きかねない。だからといって、主業農家ばかりをエコひいきできないのは、何度もいうように、都府県の「片手間農家」の作るコメのブランド力と人気に、いまだ北海道の主業農家が勝ちえていないからである。多数派で安定経営の零細農家と、少数派で経営不安定な主業農家ーー。ここにこそ、日本の農業問題のにっちもさっちもいかない難しさが凝縮している。P217


おもしろいのは、「肥料の量」と「おいしさ」が反比例することだ。
つまり、「おいしいコメ」を「たくさん穫る」ことは、原理的には不可能なのである。おいしいコメを作ろうとすれば、肥料を控えめにしなくてはならず、そうすると収穫量がダウンしやすい。逆に、収穫量を上げようとして肥料を入れすぎると、今度は食味がダウンしやすい。そのバランスをどう取るかが、いわば、コメづくりの難しさの根本なのである。P245


私はのちに、JAピンネで営農指導をする部署の職員に、なぜクリーン農業が進まないのか訊ねたところ、その職員はこういった。「農家さんにとって、変えるってことは、ものすごく勇気がいるんです。だから、みんな様子を見てる。誰が一番先にやるかなと。あいつもやった、こいつもやった、あいつもこいつもやったから、オレもそろそろやってみようってことで、ようやく広がっていくんですね」P259


99%の農家のレベルをどう引き上げていくかが、国民全体の「食」の向上を考えたとき、最も重要なテーマである。
1%の農家が、放っておいても自ら道を切り開いていける優秀な農家だったとしたら、そうではない99%の「普通の農家」は、いってみれば、私たち自身を映す鏡である。
野球における「野茂やイチロー」、あるいは、サッカーにおける「中田英寿本田圭佑」のような突出した才能と強い精神力に恵まれ、世界の強豪とも互角に戦っていけるすぐれた人材は、どの分野にもいるものだ。大切なのは、1%を基準にして99%を否定するのではなく、1%の「すごさ」の内実を、冷静に理論的に突き詰め、誰もが応用可能な技術にまで一般化し、そうでない99%のレベルアップをつなげることだろう。P286


(TPPとは )結局のところ、こうすれば「万事OK」という解はない。にもかかわらず、「鎖国か開国か」の両極端で私たちは揺れる。いつの時代も、正解は「適度に開き(攻め)、適度に閉じる(守る)」ことなのだが、その適度がどのあたりのラインなのか、誰にもわからないのである。P342


ミニマムアクセス米とは。(略)77万トンものコメを海外から輸入している。これが778%の超高関税で国内のコメ農家を保護する代償として、WTOから突きつけられている。P342

そんなあるとき、シルマンは神の啓示を受けたかのようなひらめきを得る。「夏期休暇などで使用されていない学校の教室を、子どもの宿泊施設として利用できないだろうか。そして、それをドイツじゅうの学校に呼びかけてネットワーク化できないか」これがのちのユースホテル運動となって世界へ広がっていく発想のもととなった。P418


一般に、富良野や美瑛の丘陵地帯に広がる風景は、「農村景観」と呼ばれている。農村景観とは、もちろん釧路湿原や摩周湖などの「自然景観」とは違う、農業という人為的な行為が生み出した二次的な景観であり、いってみれば、農村の「暮らし」そのものである。そうした農村景観を、私たちが「鑑賞すべき風景」であると認識したのは、ごく最近のことなのだ。農村景観を美しいと思う「感じ方」を知ってしまった今の私たちには奇妙に思えるが、どうやら「風景」とはそうしたものであるらしい。風景とは、誰かが「発見」し、多くの人が「認知」するまで、それが「価値ある風景」だとは誰も気づかないものなのだ。P432


「じつは流氷が、オホーツク海を豊かにする要素をもっていることが科学的に解明されたわけですね。私などもそのレポートを、新聞などで引き受けて随分やったんだけれども、あるとき突然のようにね、漁師さんや漁協の人たちの意識がガラッと変わりましたね」
世界有数の水産資源の宝庫であるオホーツク海ーー。それを支えているのが、じつは一見死んだように見えていた流氷の海だったことが科学的に実証されるようになった。P442


「地球温暖化でまず第一番にね、オホーツク海の流氷は消滅するでしょう。私はこれはもう、時間の問題だと思っているんですよ」私たちは、流氷を見た人類最後の人間になってしまうのではないか。じつはここ網走で、「歴史的な邂逅」の現場に立ち会っているのではないか、と菊池さんはいう。流氷を眺めて楽しむ行為は、高度に文明的な行為である。しかし、「流氷観光」を可能にした高度な文明が、逆に流氷を消滅に追い込もうとしているとしたら、何という皮肉だろう。P445


しかし、本間家は厳重にした防火設備のおかげで、この大火での類焼をまぬがれている。「うだつ壁」がその効果を発揮したという。うだつ壁とは、隣家からの類焼を防ぐため、隣との壁を屋根より高くした防火壁のことをいう。明治初期の港町の商家などは、必ずこのうだつ壁を設けるようになり、やがてそれが成功者の証しとなり、「うだつ」は成功や出世の比喩として用いられるようになった。私もよく人からいわれ、自分でもそう思ったりする「うだつが上がらない」の語源がこんなところにあったとは、初めて知った。P502


聞くところによると、ニシンそばを出すようになったのはごく最近のことだという。私はてっきりニシン場時代からの名物かと思っていたのだが、ニシンが穫れた時代には、増毛の人はわざわざ金を払ってニシンなど食べにこない。ニシンが穫れなくなった今だからこその名物だという。なるほど、聞いてみなければわからないものである。P507


古い建物や街並の残るまちは、それがないまちにとってはうらやましいことに違いないが、あればあったで身動きのとりづらい要素となる。過去の栄光が重たい”くびき”となってのしかかってしまう。残すに残せない、壊すに壊せないーー。このまちに漂う独特のひなびた情景には、そうしたどっちつかずの煮え切らなさもある。いつか滅びゆく美、散りぎわの桜、とでもいおうか。P515


古い建物を生かすということが、いかにセンスを試されるクリエーティブな行為であるかが、この「海猿舎」を見ているとよくわかる。これからの増毛を考えるとき、古いものと新しいものとが結びついた最も理想的なスタイルが、この純子さんのカフェなのであろう。古い建物も、今との”つながり”をうまく見い出していかなければ残すことはできない。そして、古いものを今にどう生かすか、ということにこそ、本当のクリエーティブな能力が試されるのではないか。P516


雄冬で出会った人たちは、雄冬をよその土地と比較して、「雄冬がいい」と言っているわけではなかった。よそのことは知らないが、雄冬は住みやすいので、よそに行く気はないという。それは年長者ばかりでなく若い漁師でさえ、雄冬の海は他とは交換できない海だった。人口90人たらずの雄冬では、一人ひとりのがんばりが地域を成り立たせ、歴史を形づくっている。そこでの暮らしも、人との関わりも他とは取り替え不可能なものだった。一方で、私を含め都会の人間は、すぐよそとうちを比較する。比較をした結果、ここがよそよりもいいとか悪いとかと考える。だってそうだろう。190万人の住む札幌では、私がいなくなったとしても、他の誰かが用意にその穴を埋める。そうした、すべてが交換可能な世界とは違った暮らしが、ここ雄冬にはあるのかもしれなかった・・・。夕暮れの海岸通りをバスに揺られながら、そんなことを私は、切れ切れに頭の中に思いめぐらせていた。P638


「あのね、私が憤りを感じているのはそこなんですよ。おカネがないなら合併しろやと。ただそれだけの話でしょ。だから、平成の大合併というのは、『大儀なき合併』という位置づけを私たちはしておったわけです」なにゆえの合併なのか。財政効率化をいいながら合併特例債とは、新たな”合併バブル”を引き起こすだけではないのか。村の財政が厳しいというのなら、一度破綻してみんなで責任をとるべきだ、という考えが神さんにはあった。P698


「投票率もハンパでないよ。たかが千票やそこらの選挙でも、うちの村は投票率95%超えてますから。投票に行かない人は非国民。そのぐらい、みんな真剣だっちゅうことだね」ちなみに、白滝村の投票率は全国有数といっていいほど高く、旧自治省や全国選挙管理委員会から、たびたび表彰を受けたほどだ。ことに昭和26年の村長選挙における投票率99.1%を最高に、都会では考えられない投票率の高さだった。P705


結局、取材を進めるうちにわかったのは、合併推進派も反対派も、吉田派も梶田派も「ズブズブ」という点においては似た者どうしであるということだ。そして、えてして都会においては、「住民と行政の距離」が遠すぎることが問題として語られるが、逆に「住民と行政が近すぎる」がゆえんの弊害も確実にあるということだ。それが「村」というものであり、人間という存在自体が抱え込んでいる本来的な難しさでもあるのだろう。「こういう小さい村だとね、理念とか理想とかではムリ。村会議員だって、親戚が多いかどうかで決まるんだから。町内会の寄り合いと大して変わらん」P719


「小さな自治体って、一人でも優秀なリーダーや人材がいると、自由が利くだけに、いい方向にいったりするんですが、逆に小さな村になればなるほど、民主主義が機能しなくなっちゃうヘンなところがあるんですよ。これはよくあることなんだけど、村長派と反村長派で村が二分されて、『アンタはどっち派?』っていうくらい仲が悪い。そうなるとね、みんなホンネを言えなくなっちゃう。まあ、逆に合併したことで、そういう確執も氷解するんでしょうけどね。狭いところで、いつまでもいがみ合っていてもしょうがないし、今までいがみ合ってた人たちも、相当もう疲れてきていますから」P719


いずれにせよ、村が「自立する」とは、そうしたリスクを含めて、住民が覚悟をもって決意しなくては容易ではないということを吉田氏は言いたいようだった。村が、生半可な気持ちで「自立」を選びとってしまうことほど最悪なことはない。覚悟のない、あいまいな「自立」ほど最悪の選択はない。まったくその通りだと私も思う。P738


結局のところ、住民投票をしなくてよかったのではないかと私は思い始めていた。取材を始める以前には思いもよらない結論だったが、白滝の実情をリアルに見定めたとき、吉田氏の「白黒つけない」という判断は、やはり行政の長の”大人の判断”として妥当だったのではあるまいか。P740