Yasublog

本、土木・橋梁、野球、お笑い、などについて書いてます。

[増田俊也] 木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

15年不敗、13年連続日本一。「木村の前に木村なく、木村のあとに木村なし」と謳われた伝説の柔道王・木村政彦。「鬼の牛島」と呼ばれた、戦前のスーパースター牛島辰熊に才能を見出され、半死半生の猛練習の結果、師弟悲願の天覧試合を制する。しかし戦争を境に運命の歯車は軋み始めた。GHQは柔道を禁じ、牛島はプロ柔道を試みるが…。最強の“鬼”が背負った哀しき人生に迫る。


上下巻合わせて1100ページを超える大作。読んでも読んでも進まない。2ヶ月かかってやっと読了しました。この本を知るまで木村政彦の存在自体知らなかったし空手チョップの力道山は大相撲出身の人気レスラーで暴漢に襲われて死んだ人、程度の認識でした。非常にショッキングなタイトルで本屋に並んでいたもののその分厚さから手に取るのは躊躇していました。ネットの書評を調べてみると結構な高評価だったので購入してみました。


感想を書こうと思いながらうまくまとまらないので。

半世紀前の報道と比べ、いったいどこが変わったのだろう。プロレスは「対決」したり「相撲か柔道か」どちらが強いかを決めたり、命を賭けて「決闘」したりーそういう競技スポーツではなく、ひとつの演劇である。力道山がら「国際的に君臨」するというのは、金で呼んだ外国人レスラーをリングの上で倒してみせるのを指しているにすぎない。P28

ブラジリアン柔術では、腕絡みのことをキムラロック、あるいは単にキムラという。名前を刻み、永遠に木村の強さを讃えているのだ。P45

一週間絶食しての行の後、牛島は開眼し、山を下りる。高僧と対話し、懊悩のすえ辿り着いた結論は「得意冷然、失意泰然」の境地だった。P122

組織とは、いや人間が集まり大なり小なりのグループを形成するようになると、正しい正しくないに関わらず傍流に追いやられた側につく人間は変人の名で遠ざけられるようになる。世の常である。P373

東条英機暗殺教唆さえ断れなかった絶対服従の牛島辰熊から地球の裏側ブラジルまで逃げた木村は、師の束縛から放たれて完全に弾けてしまい、本来の自分らしさ、すなわち戦中戦後の無軌道な生き方が爆発してしまうのだ。木村はブラジルで柔道の段位を売りまくり、レスラーとしてリングに上がり、わずか数ヶ月で今の金に換算して数億円稼ぎ出す。P504

1951年10月23日。たしかにあの日、木村政彦マラカナンスタジアムの真ん中に立ったのだ。そして何かを残していった。「自身の誇り」と「他者へのリスペクト」という人間にとって大切なものを。P118

木村の生来の悪童ぶりについてよく思わない人もたくさんいるのはたしかである。しかし、木村が本物の優しさを持った偉大なる男だったこともまたたしかなのだ。P120

牛島は目を潤ませながらこう答えた。「木村の骨を、他に誰が拾えるんだ…」あの試合は鬼の師弟の“魔の刻”であった。生涯たった一度、鬼が二人ともに魔の刻に入ったのだ。長い講道館柔道史に刻まれる最強の男二人の深い愛憎が、あとのき交錯した。誰もが食えない時代だった。焦土と化した日本で、食うために必死だった。妻を食わせ、子供を食わせるために必死だった。プロ柔道も立ちゆかず、木村は師を裏切り海外に逃げてプロレスラーに転じた。愛妻斗美の結核という事態に陥り、薬代も稼がねばならなかった。師の牛島は屑鉄業をやって糊口をしのいでいた。P417

「木村先生は可哀想でした。ずっと木村政彦に追いかけられていたんです」P568

古流柔術講道館柔道、ブラジリアン柔術など、すべての柔は、戦いの技術以前に、老子の柔弱という言葉そのままの思想なのである。強く堅いものよりも、弱く柔らかいものを上とする思想なのだ。P591