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[重松清] その日のまえに


その日のまえに (文春文庫)

その日のまえに (文春文庫)

僕たちは「その日」に向かって生きてきた―。昨日までの、そして、明日からも続くはずの毎日を不意に断ち切る家族の死。消えゆく命を前にして、いったい何ができるのだろうか…。死にゆく妻を静かに見送る父と子らを中心に、それぞれのなかにある生と死、そして日常のなかにある幸せの意味を見つめる連作短編集。


『命』がテーマの物語。小学生のころにガンリュウとあだ名のついた女の子が不治の病で亡くなる。寄せ書きに書いた言葉によって同級生の心に残った後悔の念(ひこうき雲)。余命三ヶ月の癌と告知されたサラリーマンが向かったのは幼少期を過ごした海に近い町。小学生のときに溺れて死んだ同級生。あのとき一緒に遊んでいれば死ななかったという思い(潮騒)。ストリートミュージシャンを通して会話する母子の奇妙な関係(ヒア・カムズ・ザ・サン)。不治の癌にかかってしまった和美と入院先の病院から外出して訪れたのは新婚時代に住んだ町(その日の前に)。
このほか計6篇収められている短篇集なのだが、後半で本題の『その日のまえに』に他の短篇ストーリーがリンクして過去と現在が繋がっていく構成に鳥肌が立つ。誰しも持っている「後悔」と、最愛の人の「死」を重松さんのやさしい言葉で書かれた名作。感涙必至なのでくれぐれも電車では読まないように。

昔のことを思い出すというのは、縁日の屋台でヨーヨー釣りをするようなものなのかもしれない。ヨーヨーにつけたゴムの輪っかに針を掛けて釣り上げるのが「思い出す」ということなら、輪っかがうまく付けられなかったヨーヨーや、最初は付いていた輪っかが取れてしまったヨーヨーは、「思い出せない」「忘れた」になるのだろう。

ただ、長く生きすぎてしまったひとの流す涙は、ガンリュウの――おとなになるまで生きられなかったひとの流した涙と同じだと思った。神様に気まぐれに選ばれてしまったひとたちの涙が、僕の胸に染みていく。言葉で説明しようとすると、すっと遠ざかる。黙っていれば、また波に漂う木切れのように戻ってくる。手を伸ばしても届かないし、決して岸辺には打ち上げられない。けれど、それは確かに、僕の胸に染みて、広がって、やがて消えていった。

再婚は、いまの時点では考えていない。明日奈と女同士の気楽な二人暮らしも悪くない、と思う。ただ、たいした起伏もなく、「以下同文」と端折られてしまうような毎日が、ときどき怖くなる。平凡。平和。平穏無事。そんな言葉でまとめられる毎日の、冗談みたいなもろさを、ぷくさんは知っている。

そうですか、とうなずくと、義父は見る間に目に涙を浮かべながら、つづけた。「・・・じょうぶな子に産んでやれんで、すまんかった」神様よりも人間のほうが、ずっと優しい。神様は涙を流すのだろうか。

僕は和美と再会する。 <忘れてもいいよ> 一言だけ、だった。

「終末医療にかかわって、いつも思うんです。『その日』を見つめて最後の日々を過ごすひとは、実は幸せなのかもしれない、って。自分の生きてきた意味や、死んでいく意味について、ちゃんと考えることができますよね。あとにのこされるひとのほうも、そうじゃないですか?」「でも、どんなに考えても答えは出ないんですけどね」たとえ、あと何日・・・何年あっても、僕は答えにはたどり着けない気がする。 「考えることが答えなんだと、わたしは思ってます。死んでいくひとにとっても、あとにのこされるひとにとっても」